Windowsネタが続きます。今回は、EditMTUでWindows XPのインターネット接続速度を高速化してみます。 高速なADSL回線や光回線に繋いだWindows XP搭載のパソコンでネットをしても、イマイチ速く感じないなという方がいらっしゃると思います。これは回線側の問題ではなく、Windows XPの古い仕様によるものだそうです。XPの基本仕様自体が古いですからねぇ。 詳しいことはトビもよくわかりませんけれど、レジストリの値を変更してやることで高速化が見込めるようです。そのままレジストリを触るのは怖いので、ここではEditMTUという定番フリーウェアを使って実際に変更してみることにします。 このソフトでは詳細な設定が可能ですが、よくわからない方は5つの数字、『MTU』『RWIN』『Http1.0』『Http1.1』『速度の種別』を追うだけで十分でしょう。 また、ウイルス対策ソフトやTwitterのタイムラインなど、計測誤差の発生しそうなソフトは事前に終了しておいたほうが良さそうです。 まず、回線速度計測サイトで現状の回線速度を計測します。私は『gooスピードテスト』を利用しました。 遅いです。なぜ遅いと言えるのかというと、Macでは25Mbps前後をコンスタントに叩き出すんですね。Windows XPパソコンのみ所有している方は、他の色々な計測サイトで大まかな平均値を把握すればいいでしょう。 では、ソフトの使い方。起動直後↓ 最初は『自動設定』タブが開きますが、ここは無視。『オプション』タブに移ります↓ 1. 『存在しないRegistryキーは作成する』にチェックを入れます。ここでソフトをいったん終了してもう一度起ち上げます。 『MTU探索』タブに移ります↓ 2. 『速度の種別』にてご自身の回線速度に近いものを選んでください。光回線なら100MbpsだとかADSL40Mなら40Mbpsだとかですね。私の場合は光回線(100Mbps)ですけれど、無線LAN(802.11gなので最大54Mbps)を経由します。この場合、100Mbpsにすべきか50Mbpsにすべきかわかりません。とりあえず50Mbpsにしておきました。 3. 『Ping』ボタンを押します。下の大きな空欄に進捗状況がずらずらーと出て、終了します。そして、4. 『MTU』と5. 『RWIN』の値が算出されます。この2つの数字が最も重要なものです。 終了と同時にダイアログボックスが出ます↓ これは、次の作業に移るためのコピーなので6. 『OK』を押します。 『Win2k/XP』タブに移ります↓ ややこしいですが、見る箇所は囲ったところだけ。4.と5.の値がそれぞれのボックスに入っているはずです。緑四角は初期値ですので、空欄になっていたりハイフンだけだったりでもかまいません。(注:この記事のスクリーンショットの値が一致していませんが、事故です。) この値をレジストリに上書きします。10. 『Registry書込み』をクリックして書き込み、コンピュータを再起動してください。これで値が反映されます。 また、他にも変更したい値があります。『オプション』タブ内の↓ 7.『Http1.0』と8.『http1.1』の値を変更します。適正な数値はちょっとわからないのですが、両方とも6や8くらいでしょうか。速い回線ならもっと増やしていいのかもしれません。9.『Registry書込み』をクリックします。なぜか、これをクリックしても再起動を促すダイアログが出ないので、値を反映するために手動でコンピュータを再起動します。 設定方法は以上です。後は、「計測サイトで速度を計る→数値の変更→レジストリ書込み→コンピュータ再起動→計測サイトで・・」での繰り返し。4.と5.の値はPingを打つ度に変わります。また、2.の速度も変更してみます。私は20回弱トライしてみました。ソフトの設定の流れは、通し番号順がよいでしょう。7.8.9.は、頻繁に行う必要も無さそうです。 最終的に、私の環境は↓ うーん、確かに速くなったものの、まだMacには遠いですね・・。そもそも設定値が微妙な結果に。一応5つの数値を書いておきますと↓ MTU:1,438RWIN:115,200Http1.0:6Http1.1:6速度の種別:50Mbps でした。RWINの値は、Windows XPの初期値が65,535ですので、これを下回る数字を入力するのは意味がありません。この点はご注意ください。 MTUの適正値はそれぞれの回線問屋(NTTなど)に参考として挙っている場合もありますので、その値をそのまま利用してもよいでしょう(ここには各値の算出方法も載っています)。NTT西日本フレッツ光プレミアムの場合は1438となっています。 こればかりはひたすら試すのみですから、何度もトライしてみてください。ただし、時間帯やWebサービスの込み具合などでも数値が大きく変わりますから、ある程度の妥協は必要です。 12/11

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今回のルーフラッピング、自分でやろうか迷った挙句、業者にお願いしたんです。 どうして今更ルーフを黒くしようと思ったか … その経緯や施工後の感想を語り、最終的に 「カッコ良くなった! 最高!!」 で締めくくるつもりでいたんですけど。 やっぱりそうはいかないみたい(笑) ちなみに選んだ色はグロスブラックで、このシートの持つ特色や良し悪しは後日書くとして … さしあたっての問題。 シャークフィンアンテナ、車を引き取りに行った時から僅かに違和感を感じていたんです。少しいびつなような … 浮いたような感じがする、と。 でも、色が変わったからそう感じるんだろうな、と思ってた。 で、引き取った日は車を良く見る暇が無かったんで、翌日。シャークフィンアンテナを何気なくさわると … グラグラなの。 右側を支点にして左側が浮き上がる。ちなみに上の画像は、アンテナを少し持ち上げて写真を撮ったもの。 隙間から中が見えてますよね。 アンテナは外してラッピングします、と言っていたので … こりゃ施工後にちゃんと嵌めて無いな、と。場合によっては取り付け直してもらわなければいけないので、すぐさま電話。 実はですね、ギリギリ県内、ってぐらいの離れた場所に一泊でお願いしたんですよね。自分で 「ココが良さそうだ」 って選んでお願いしたんですけど。 てなわけだから、サッと持って行って見てもらう、って事が出来ないんです。 だから、構造を聞いて自分で出来そうなら自分でやろう、と。 っていうか、自分がそう言い出す前に業者さんのほうがそういう雰囲気だったんですけどね(笑)(「一度見せて下さい」、的な言葉は一言も出なかったので) で、とにかくこのシャークフィンはただのカバーで、上から被せてあっただけだったっていう。 私は、てっきりこれは裏から (室内側から) ネジか何かで留めてあるものとばかり勝手に思い込んでました。 「アンテナ簡単に外れそうに無いなぁ」 ってのが、今回業者にお願いすることに決めた (モデファイの外注は初だ!!笑) 大きな要因なんですけど … まぁそれはいいとして。 浮いていた原因は、シャークフィンの裏に貼っていた両面テープの厚さが足りなかったから。

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ロストリバーデルタを後にしてアラビアンコーストに一歩足を踏み入れてすぐに、左手に見えるのがジャスミンのフライングカーペットです、 映画「アラジン」のアラジンとジャスミンのロマンチックな空飛ぶ絨毯の世界に連れて行ってくれる、新アトラクションです。 あなたも、アラビアンコーストの空の世界を楽しんでみてはいかがですか。 ☆   フライングカーペット、待ち通路の壁画に、(217/330) ☆   同建物入り口横の化粧バーに、出口にも、(219/330) 空飛ぶ絨毯を楽しんで外に出ると目の前には、アラビアの海が広がります。 ☆    港に停泊している船に、(220/330) ☆    埠頭に置かれた壺が、(221/330) 木々の茂ったジャングルにくらべると、アラビアンコーストは日差しをさえぎる緑が少ないので、暑いです。

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まだ大丈夫だけどね。ホームセンターなんかは追加の仕入れはしないことが多いので、売り切れたら終わりだよ。種苗店はさすがにそんなことはしないので、今月いっぱいは急がなくても大丈夫だ。でも、早めに買っておいて損はないからね。 でも、買ったら直ぐに植えつけないと枯れてしまうのでは?って、みんな思っているんだねえ。 だから植えつける直前というより、当日に買おうと考えているんだなあ。 それって、本当に正しいやり方? その前に、サツマイモの苗って、そんなに簡単に枯れるの?いやいや、彼はなかなかの強者で、そう簡単に枯れてしまったりはしないんだねえ。 でも、保存のための処置はいるんだよ。 これが今日調達してきたサツマイモの苗だ。 これを見て、「えっ」という人が案外多いので、こっちの方が「えっ」だよね。 聞いたところによると、どうやらポットに入った苗を想定しているらしいんだなあ。 でも違うよ。 サツマイモはこういう苗蔓を植えるんだよ。 そんなことはどうでもいいので、これをどうするかだよね。 直ぐに植える人は植えて大丈夫だよ。でも、まだ畝が整ってなくてという人は、しばらく保存しよう。 大丈夫、枯れたりはしないから。 例えばこの苗、いかにも新鮮だろう。 どう見ても精々昨日採ってきた苗に見えるよね。 でもね、これを見てごらん。 これは蔓の切り口だよ。 どう見ても昨日今日採ってきたものではないよね。 でも、新鮮だ。 何で? さあ、そこなんだよね。 もう何日も経っているはずなのに、何でこんなに新鮮に見えるんだ?それが今日の話題の保存法なんだよね。 ヒゲおやじ流はまた後で話すとして、実は何年か前に芋蔓を専門に扱っている農家に苗蔓を買いに行ったことがあるんだよね。 広い倉庫にムシロを強いて、多分100本単位だと思うんだけど、束ねた芋蔓が一面に並べてあるんだ。 えー、こんなところで個人にばら売りしてくれるんだろうかと、恐る恐る「すみません、ばら売りしてもらえるんでしょうか」 「ああ、ええぞな、何本いるんぞな」ときた。 「鳴門金時20と紅あずま20ください」 「あいよ」てなもんだね。 それがまた飛びきりのピンピンの苗だ。「綺麗な苗ですねえ」などとお世辞のつもりで言うと、「兄さん、これはな。水さえかけといたら何日でも持つんよ」と仰る。 「本当はな、ちょっと萎れかけたくらいで植える方がええんやけど、そんな苗誰も買わんやろ。みんな新鮮な苗を買いよるからな」。 「ほやから、毎日水かけて新鮮に持たしとるんよ」。 だそうだ。 わかるかな? 「へー、それでどのくらい持つんですか」 「そうやなあ、2週間や3週間は持つぜ」。 「そやけど、植えつける前にはいっぺん枯らした方がええぞな」。 ほほー、これは耳寄りな話を。 やはり専門家だねえ。 ということで、それ以来ブログでも、枯らしてから植えつける方がよいという記事を何回も書いているんだねえ。 で、実際にやってみると活着率は圧倒的に枯らした方がいいんだ。 でも、枯らしすぎると失敗するよ。 やはり加減というものがあるからねえ。 で、ここからはヒゲおやじの保存法。 その後も色々やってみたけど、あまり長く保存するのは良くないみたいだね。 まあ、適当な期間ということだ。適当な期間って? うーん、1週間かなあ、素人がやる場合は。 で、どうやるの? そうだねえ、ヒゲおやじ流としては、新聞紙か何かにくるんで、ばらけないように軽く縛った方がいいけどね。それを浅く水を張ったバケツに浸けて、涼しい日陰に置いておくんだ。 こんな感じだけど、乾いたら上から如雨露か何かで水をかけてやるといいよ。 置き場所はあまり風の当たるところはよろしくないねえ。 できれば暗目がいいなあ。 これなら1週間や2週間は大丈夫だよ。 あ、そうそう、新聞紙で巻いて縛るのは、蔓が曲がってしまうのを防ぐためだよ。そのままバケツに放り込むと、蔓が曲がってしまって植え付ける時にえらく苦労するからね。

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「GTroman完全版」で西風サンいわく「これで終り」だったはずなんですが、ファンの声が大きかったためか、あるいは西風サン自身がスピード違反か何かで一時刑務所入りしてしまったらしいとかいういろいろな事情があってか、とにかくおめでたいことに「GTroman」の新シリーズとしてムック形式で復活ということになりました。個人的には大ファンでしたので、もちろん大歓迎です。 なお品物は楽天ブックスで注文したのですが、写真のようなえらく頑丈なダンボールで送られてきました。何で?と思ってのですが中身の本はA4サイズのムック本ですし、安全を期したということでしょう。 でも、写真のように(わからないと思いますが)本はちょっと痛んでました(角のささくれや折れなど)。たぶん最初からだったんでしょうね・・・まあ楽天ブックスではよくあることですし、店頭まで行かずしかもポイントである程度支払っているのであまり文句は言えません。程度は軽かったのでまあ今回はよしとします。 ところで、今回に限ってなぜか下の写真のような担当を示すメモも入ってました。いままで見たことなかったのですが、もしや楽天ブックスが「コレクター品」と判断したものにはコレがつくのでしょうか?でもどうせなら全部にきちんとつけてほしいものですね。 さてさて、今回たのんだのは現在販売中の第1巻と第2巻です。 ただしムックですし漫画だけではありません。西風サンの漫画を中心に、西風サンのイラストつきの小説やクルマ関連の記事、はては他の企画ページとかなりバラエティに富んでいます。そのため漫画オンリーでいい!という方は不満に感じるかもしれません。 まずは第1巻、旧作が何本か収録されていますが、新作は1本のみ。でもその1本もなかなか濃い作品ですし、なつかしのキャラ(樹里亜サンや蛇蔵爺さんなど)が出てきてなかなか読み応えあります。他にいしかわじゅんさんの小説に西風サンのイラストという企画もあり、なかなか面白くていいです。 なお過去の作品を知らない人のためか、新作にまつわる旧作の話(「クロスロード」の分もあり)も入っています。 タケちゃんや臼井クンなどメインの常連キャラは出ていませんでしたのでそれは不満でしたが、それは以後のお楽しみということのようです。で、第2巻に行きますと・・・・おお!表紙にタケちゃんがっ!やはり押さえるところはちゃんと押さえてくれる、それが西風サンの漫画ですね。 なお、表紙のちょいケバ目の女性は・・・?もちろんネタバレになるので秘密です。 なおこの巻は新作2本とその他の企画という形です。中には下のようなページもあります。それにしてもむねぴー、本当に絵が変になってきていますね・・・・。ボルナツ初期の初心に戻ってマニアックに漫画を描いてほしいところです。 巻末には今後も続刊予定のようで、2月末には第3巻発売とか!まだまだ出てない重要キャラ(エイテツ、ヒロシ、臼井、爬虫類巻カオルなど、「その後」が気になるキャラがたくさんいますし)も隠されていますし、今後に期待がかかりますね。とりあえず、クルマ好きなら買って後悔はしないでしょう。

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先ずは  保存会登録名 「彩」 生後7ヶ月 つづいては 保存会登録名 「夷乃里」 牡 最後に ↑ 二頭を 仕切ってる 姉御  「北海理子姫」 ここに 北海道犬 千歳系統第二熊 黒褐 一本物 が 加われば  もう 完璧 それも 牡&牝 2頭 黒褐の 貴重さは 繁殖して色素の濃い犬を 作出するのに 欠かせない・・・・とか 昨今 白毛が流行って いますが  縁の下の力持ち  的 黒毛 が 良い犬を 作出するには 必要不可欠 たまたま 出た 黒毛ではなく 黒毛に こだわって 血統書の最初から最後まで 両親とも黒毛 の 遺伝子を受け継いだ仔犬 全毛色に影響を与える 黒毛の貴重さをもっと  北海道犬 各団体 PR しなければ

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長年染みついたスイングの癖は自分では修正できないことを悟り、ゴルフアカデミー3日間コースへ参加しました。  アカデミーの練習場は開放的な雰囲気で、バンカーやアプローチ練習場も備えています。初日 10時フェニックスカントリークラブにチェックイン、アカデミーまで移動の後、レッスン内容の説明、アンケート記入の後、練習場に移動してグリップ、セットアップ、スイングなど基本的な説明から始まり、いよいよショットの練習です。打席は天然芝で、指導を受けながらNo7アイアンをひたすら打ち込みます。途中で前方、後方からのビデオ撮影があり、スイング解析とアドバイスがあります。 午後からは、アプローチやパット等のレッスンがあり、その後フェニックスゴルフコースでレッスンラウンドとなります。 10月の18時ともなれば辺りは闇に包まれていきます。最終ホールはあきらめ、手引きのカートを引きながらクラブハウスへと向かうこととなりました。 二日目朝は7時から練習できるので、前日の復習が十分できます。この日のレッスンは、ドライバーなどの長めクラブ、バンカー、アプローチが中心です。そして、3時ごろからインストラクターとトムワトソンゴルフコースに出て実践練習です。カートは使えましたが、やはり日没となり最終ホールは断念することに。 最終日(三日目)トムワトソン・ゴルフコースにチェックイン、アカデミーの練習場で軽く練習してからインストラクターと一緒にトム・ワトソンゴルフコースでのラウンドです。クラブハウスのロビーにはSamantha Thavasa(サマンサタバサ)のショップがあって、かわいい感じです。 ラウンドはインストラクター2名の方が前半、後半のハーフずつ、アドバイスしながら一緒に周ってくれます。 いよいよスタートとなり、これで、二日間の成果を見せられると思いながらのティーショット。気持ちのいい打球が真っ直ぐ飛ぶはずが、なんとドライバーの打球は思いっきりスライスし右の松林に吸い込まれていくことにこのスライスに前半は泣きましたが、後半になるとアドバイスの効果が現れ、弾道がみるみる良くなっていきました。 長年染みついたスイングの改善には時間がかかるので、すぐにスコアに結びつくかは分かりませんが、ゴルフの理論、基礎、テクニック、練習法、そして自分の欠点を明らかにしてどうすれば良いか、方向付けをしてくれるレッスンとして非常にクオリティーが高い3日間のレッスンだと思います。 ちなみに、地元に戻ってから、指導されたことを思い返しながら練習してますが、少しずつスイングが改善され、良い球が出始めています

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 35年前、一時ロシア語教室に通っていました。  週に一度、或いは月に二度くらいだったし、家で復習とか予習をせず、ただ出席するだけだったから、落ちこぼれでした。皆と一緒に中級に上がれなかったのを機会に、1年半で辞めてしまいました。  だからロシア語なんて、全くやってないのと同じ。あの一年半は無駄だったと思っていました。  でも今は、「あの昔の経験も全く無駄だったわけでもないんだな」と感じています。なぜって今回、「全くゼロからの出発」ではなかったからです。 キリル文字が読める  まずなんといっても一番大きかったのは、キリル文字が読めることです。定期的にメンテしていたわけでもないのに、文字の読み方って案外覚えているものですね。  уを「イ」と読んじゃったりはпрを「ヌプ」と読んじゃったりは日常茶飯ですが(笑)。あと、最初から間違って覚えたのか、それとも途中で記憶が書き換わったのか、間違って覚えていたこともある。чтоを「チトー」じゃなく「シトー」と読むというのは新鮮だったし、борщが「ボルシチ」じゃなく「ボルッシ」と読むというのも新鮮でした。  ・・・とまあ、そういう細かいアラは枚挙にいとまがありませんが、でも全く読めないわけじゃない。  初っ端から入門書のスキットが曲がりなりにも最後まで読めたんだから、たいしたものです。文字に慣れるのも、けっこう時間がかかりますから、昔ちょっとでもやっててよかった、と思いました。 キリル文字が書ける  キリル文字をブロック体で書くのは難しくはないのですが、まどろっこしく、時間がかかります。特に「д」。これがめんどくさい。速く書こうとすると、どうしても筆記体で書きたくなる。  ところがこの筆記体がけっこうむずかしい。まずブロック体からはとても想像できない文字の形がある。たとえば「т」。ブロック体と筆記体でえらい違い。これ↓、どう見たって「m 」にしか見えないよね・・・。 дети(子供たち)  それより何より問題は、文字のつなげ方が書かれている本がほとんどないこと。一つ一つの文字の書き方は入門書にもたいてい載っていますが、それをどう繋げるのかまでは書かれていない。  わたしが知る限りで文字の繋ぎ方が載っているのは「ロシア文字の第一歩」だけです。これはキリル文字練習帳みたいな本。その本も絶版。  You tubeでキリル文字の書き方講座が見つかりますが、たいてい英語です。  でも、一文字一文字の形がきれいでも、繋ぎ方がおかしいと、ロシア語は全く違った綴りに読めてしまいます。キリル文字の筆記体で難しいのは一文字一文字の書き方よりも、文字の繋ぎ方だと思う。  特に一番厄介なのは「л」と「 м 」と「 я」 。書き始める前に必ず小さなフックをつけなくてはいけない。  たとえば「земля(地球)」だったら、以下のように書くわけです。  仮にこのフックを省略してしまうと: ・・・「зешя」としか読めない(そんな単語ないけど)。  でもさー、先生につかないで、独学でロシア語やってたら、そんなフックをつけなくちゃならないなんて、分かるわけないよね。自分の書き方に疑いを抱くチャンスすらない。自己流の筆記体で作文書いてソンをしている人、実際いるんじゃないかなあ・・・。  幸いわたしは昔教室に通っていたおかげで、頭では覚えていなくても、手が覚えていました。自然に手がフックをつけて書いていた。これはありがたいことだと思いました。教室に通うのも無駄じゃないわー。  ロシア語の筆記体は他にも、「こういう場合はどう続くんだろう?」っていう場合がいっぱいあります。特に、аとоは、かなり意識して書き分けないと、自分で読んでもどちらか判別がつかない。  一番良いのは、実際にロシア人が書いた筆記体を見ること。「Russian Cursive」で画像検索をかけるといろんなのがひっかかってきます。一番分かりやすいのは、このyou tubeとかこのページかな。実例をたくさん見ると、繋げると分かりにくい文字は無理してつなげなくても良いんだ、と分かります。  ところで下↓のスペル、なんて読むと思う?  正解は、 「лишишь」(リシーシ) 。「君は奪う」という意味。  ロシア語ってつくづくヘンよねー。こうなると、どこまでが一つの文字か分からない。よくアラビア語がどこで切れるのか分からないっていう人いるけど、アラビア語はこんな紛らわしい文字はない。  まあロシア語も、こういう分かりづらい単語の場合、шの上に横線を引くようです。 聞いたことのある単語

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○プロローグ 1969(昭和44)年10月、爽やかな秋風と共に武蔵野の鉄路に登場した5000系特急電車“レッドアロー号”とE851形電気機関車こと“赤い電機”は、共に西武鉄道西武秩父線の開業に合わせて新製され、その存在を世間にアピールした旅客・貨物輸送の花形であった。 西武秩父線(以下秩父線)は、西武鉄道の路線ではかつてない急勾配の連続する山岳部を走る線区であり、その山岳線での1000㌧貨物の牽引輸送を行うために新製されたのが、後に日本の私鉄界で唯一のF級電機・最強力機関車としてつとにその名を全国に知らしめた、4両のE851形電気機関車であった。 1000㌧牽引を設計目標として計画されたE851形は、性能的には当時の国鉄機・EF60形を、機構的には交流仕様の部分を除いた同EF81形の制御機構や主幹制御器および台車を、車体タイプと機器配置等については同EF65形を、設計目標に適合させるべくそれぞれの主要部分を採り入れて新製された。従って形式番号も、EF81形の「8」、EF65形の「5」、製造番号「1~4」を組み合わせた、独特のものとなった。こうして、国鉄機の主要部分を合成した形の設計ではあったが、全体が合理的にまとめられたバランスの整った姿で、西武鉄道貨物輸送のスターとしてレール上を飾った。 ○機関車にも愛称を 秩父線開業前の西武の貨物輸送は、5形式10両(E21形2両、E41形4両、E51形2両、E61形・71形各1両)の旧型機関車を使用する小・中量級の輸送規模であった。これら旧型機関車には、これといった愛称や俗称等は付けられていなかったが、E851形の登場によって俄に機関車のグループごとに愛称もどきの俗称が生まれた。E21・41形を「小型」、E51・61・71形を「大型」、そしてE851形を「ジャンボ」と、機関士仲間や車両関係者の間でごく自然発生的に呼ばれるようになった。これらのうち、E851形を“ジャンボ”と呼んだのは、当時世界の各国でジャンボジェット機の就航が相次ぎ、超大型のものなら何でもジャンボと呼ぶような風潮があったことに拠ったのではないかと推量する。とにかく、それまでの在籍機関車とは違って、車体の大きさ、性能、操縦性、乗務環境等に卓越した機関車であっただけに、ジャンボジェット機の持つ機能的なイメージにも重なっていたようだ。 一方、「赤い電機」の愛称は、鉄道の現場ではほとんど使われることはなかったが、車体の色(配色)が当時の機関車としては斬新であったため、全体に“赤い”印象から巷で付けられた愛称であろうと思う。 ○新機軸を載せて 国鉄近代電機の諸機能を受け継いで造られたE851形だが、この機関車独自に採用されたものがいくつかあった。当時、発電機(制御電源用)には回転形が使われていたが、いち早く静止形のインバータ(4kvA)を搭載した。また、連続する下り勾配が9㎞程度であったため電気(発電)ブレーキは採用されず、空気ブレーキによるタイヤ弛緩等を考慮して、動輪には一体型の圧延車輪を用いた。これは、一体型車輪を機関車に使用した、おそらくパイオニア的存在であったように思う。だが、この一体型車輪も秩父線の営業運転開始直後に、連続急勾配を降坂する重量貨物列車の運転は西武鉄道としても初の経験であったため、運転操作の未熟から思わぬ結果を招く(後述)こととなった。 その他、空気圧縮機用の調圧器には汎用のS16系(空気式)ではなく、電気式(無接点制御)調圧器を採用した。 中身はともかく、何といってもE851形が与える一種独特な風貌は、車体側面中央に連なる二つの丸窓であろう。国鉄形に近い容姿ながら、この二つの丸窓がそれを感じさせない、ヨーロピアン風な機関車としてその印象を語らせているのも宜なるかなである。 ○期待とは 魅力とは 秩父線開業のスターとして登場した赤い電機を是非運転してみたいと、その期待に大きく夢を膨らませていたのは私ばかりでなく、悠然と重量貨物を牽く赤い電機の運転席越しに先輩機関士たちの泰然として誇らしげな姿を垣間見るにつけ、電車運転士たちの胸中は羨望に大きく躍っていたことだろう。 私が、待望の機関士となって赤い電機に乗務できたとき(1974年)には、すでに5年の稼働途上にあった。幸運にも、電気機関士見習いとして最初に乗務したのが、図らずも憧れそのものの赤い電機・E851形(E853号機)であった。右も左も分からない機関士見習いの初日、指導機関士から実務の見習期間は短いからといきなり機関士席に座らされ、無我夢中で火照る身体が緊張で一杯だったのを、今も時折懐かしく思い出す。何も分からないながら、指導機関士から言われるままに震えを抑えた手でマスコンを1ノッチ投入、いとも簡単に静かに100㌧もの機関車が貨車群を従えて動き出したあのときの高潮感と感激は、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。 電気機関士として一本立ち初日の乗務最初の担当牽引機は、E851形にあらず旧型のE71形であったが、最初のノッチインは見習いの時と同様に例えようのない感動を味わった。私にとって、貨物列車運転の最大の魅力はマスコンを1ノッチへ投入する瞬間で、あの重い列車が動き出すその瞬間に全てが凝縮されていた。 ○重連総括運転で挑む 貨物列車運転のハイライトは、区間こそ僅か3㎞・6分間の力闘だが、E851形の総括重連による1000㌧重量貨物を牽引する運行であった。朝は隅田川へ、夜は南甲府・南橋本方面へ、バラ積みセメントを専用タンク車で1日2回輸送する。25‰の上り勾配区間ともなれば、如何に強力機E851形といえども単機での1000㌧牽引は叶わず、東横瀬~芦ヶ久保間3㎞(25‰区間長は1.72㎞)を上り列車は重連運転を必要とした。この朝夕1回の重連仕業は、1976(昭和51)年に国鉄(JR)武蔵野線の開業によって、それまで行われてきた池袋駅(隅田川行き)と国分寺駅(南橋本・南甲府行き)の両駅における連絡貨物の輸送中継が武蔵野線の新秋津駅1駅での中継となったため、また、物流界全体の輸送量の減退もあって、朝の1回となってしまった。 蛇足ながら、この時点で入換合図方式が手旗から無線機に変わった。当時、本使用に先立って新秋津駅構内で無線機を使っての入換訓練が実施され、この訓練のトップバッターにたまたま私が指名され、初めて無線機による入換を経験した。手旗の合図に馴染んできた身のあの時の不安、上司から旗より安全だといわれても、半信半疑で訓練した当時のことをときとして思い起こす。とにかく、手旗に馴染んできた感覚を一挙に変える(視覚から聴覚へ)には、相当の勇気が要った。また、この無線機による入換作業と並行して、機関士~車掌間の相互連絡にも無線機が使用されるようになり、当時運転中の乗務員相互間の連絡がなしのつぶてだった状況が改善された。  重連の組成・解放作業は、乗務員自身(機関士と車掌の共同作業)が行っていた。重連運転は、東横瀬~芦ヶ久保間で上り列車のみに充てられていたが、ときには機関車運用上の調整から飯能駅まで重連の足を延ばしたこともあった。また、芦ヶ久保で解放される機関車は直ちに別の定期仕業に就くため、例え単機牽引で済む荷であっても運用上同区間は重連で運転された。この重連組成に関して、一つややこしいことがあった。 本来、上り列車に対する芦ヶ久保以遠の機関車運用上から見ても、芦ヶ久保で解放される最前部に連結されている機関車が補助機関車であって、次位機が本務機関車ということになる。つまり、国鉄風に表現するところの「前補機」の重連組成形態である。 ところが、西武鉄道の運転取扱上では、本務機とは“機関車を2両以上連結したとき、最前部に連結し運転に責任を持つ運転士が乗務する機関車である”と定められていた。機関車自体の運用ではなく、運転取扱上で決められた「最前部・本務機関車+次位・補助機関車」という統一した形態であった。すなわち、重連組成に対しては常に最前部連結の機関車が本務機というわけである。従って、芦ヶ久保では重連列車の本務機として運転してきた最前部機関車を解放するので、当然、次位に補助機として運転してきた機関車がこの先の当該列車の本務機になる、ということである。 ちなみに秩父線開業後の8年間位いの間は、25‰勾配区間でのE851形単機牽引の定数は630㌧であったと記憶するが、この630㌧は当時のE851形の状態(操縦に起因して動輪削正を余儀なくされ、動輪径の縮小から空転を誘発しやすい状態にあった)に係わって空転を多発し、レール面のあちこちに擦傷を生じさせていた。これに対して、乗務員の間からも牽引定数削減の要請が出され、その後程なくして牽引定数は570㌧に軽減された。ただ、牽引定数の630㌧は決して荷が勝ち過ぎていたわけでなく、この重量牽引には私も自信があり意気に感じていただけに、当時は少し無念さも残った。 ○赤い電機サミットへ  標高337㍍のサミットへのアプローチは、上り列車は東横瀬駅から7㎞の間に89㍍、下り列車は吾野駅から9㎞の間に152㍍、各々その標高差を登る。その間に介在する右へ左への曲線はほとんどがR300(半径300㍍)で、その介在率は上り26%・下り45%と下り列車の方が厳しかった。ただ、重量列車の運行は上り列車の方が多かったため、幾分は救われていた。 とはいっても、“行きはヨイヨイ、帰りは・・・”の例えではないが、長い坂を下りることもこれまた貨物列車にとって大変であった。 正丸トンネル信号場構内にサミットの頂点を持つ正丸峠越えは、三菱工業(セメント工場)専用線内の東横瀬駅を上り列車は出発点とする。朝の重連仕業の始まりは、夜の帳がまだ明け切らない横瀬駅を出庫、重連単機で1㎞先の東横瀬へ向かう。横瀬駅構内は、厳冬期には架線が結露しやすく、それが凍結してパンタグラフからは周りを異常に明るくするほどの青白いスパークが飛び、重連機の黒いシルエットを浮かび上がらせながら走ることもしばしばであった。東横瀬到着後、直ちにバックで組成連結に入る。重連機の単弁応答はやや鈍く、慎重に連結する。組成が終わって、機関士が真っ先に気になるのがその日の荷の重さ(換算両数)だ。車掌から解結通知書が届く。内容を素早く記憶の中に留め、これから先の運転要領を頭の中で整理する。この間合いが、出発前の気持ちを充実させてくれる。   今日の荷は、セメント積みタンク車(1900形)13両、袋詰めセメント積載の有蓋ボギー貨車(テキ400形)4両、回送車掌車(国鉄ヨ6000形)2両、それに編成両端に緩急車(ワフ101形)各1両を連結した、現車21両・換算99.5両(995㌧)・延長29.4両(機関車を含め約250㍍)だ。 出発準備も整い、電車12両分ほどの長い貨車群を従えたE851形重連機関車は気笛一声、白み始めた冷気の中へブロアーの音を豪快に響かせ足並みを揃えた7000馬力の塊が、いとも容易く起動を始める。S~SP~Pノッチへ、力強く加速を続けるE851形重連総括のパワーは見事なものであった。55km/hの区間最高速度に難なく近づく。25‰上り勾配線上をR300のカーブに沿って45km/h前後の均衡速度で1000㌧の貨物を引き上げ、やがて難所をクリアして芦ヶ久保駅に到着する。 しかし、これもE851形単機牽引による定数一杯(列車組成は定型化され、セメント積載タンク車10両と編成両端に緩急車各1両の現車12両・換算57両)の列車では、重連牽引時のようにはいかない。東横瀬を出発後、構内の最終ポイントを渡り終えるとおよそ500㍍のほぼ平坦直線区間に入り、この間で助走をつけ一気に加速して速度を稼ぐ。この助走区間を過ぎると、次駅(芦ヶ久保)まで15‰に続きR300の曲線を伴った25‰の1.7㎞にわたる上り急勾配にその馬力を賭ける。 さしものE851形も25‰区間に突入すると、一気に稼いだ速度も徐々に低下し始め、やがては38~40km/h近辺で均衡する。ところが、短いながらこの区間には油断のならない状況が待ち受けているのだ。雨は勿論のこと、朝露、夜霧、落ち葉、レール塗油器等による空転の発生である。しっかりと線路状態を見極めながら、空転発生の兆候把握に全神経を集中させる。 先行する電車の運転状況による架線電圧の変動にも、ときとして気を配らなければならない。事前の砂撒きで空転防止を図るも、空転に至ったときなどは砂撒きスイッチ(電磁空気式)を踏み込む足にも勢い力が入り、腰を浮かしてしまうことも。強く踏んだからとて砂の出が増えるわけでもないのに、自然と身体が反応してしまっているのだ。 秩父線開業当初、重量貨物列車の急勾配登坂に対する経験の乏しさから、登坂技量のノウハウやE851形の使い勝手が思うに任せず空転を多発し、レール面上に損傷を与えたり、信号停車で引き出し困難や不能に至ったこともあった。当時、空転等による運転阻害を防ごうと、急勾配線区における降坂方法や引き出し方法について、当時の国鉄にその操縦方法を仰いだと聞いている。その頃から毎年1回(梅雨時前後)、東横瀬~芦ヶ久保間において機関士全員を対象に、急勾配引き出し登坂訓練が実施されていた。この訓練は定期列車で行われるため、訓練に運転時分が割かれる分を勘案して訓練当該列車の東横瀬出発が調整されていた。訓練者は日時を指定され、晴雨にかかわらず実施された。訓練は、列車全体に最も負荷のかかる場所(R300・25‰上り勾配線上に列車全体を懸けて停止させる)が選ばれて実施されたが、雨天時の引き出しは誠に悪戦苦闘の連続で、訓練指導担当者の傍らでそれこそ手に汗を握る。  この訓練での引き出し損ないもあって、その度に空転による何らかの損傷をレールに与えていたため、線路保守上思わしくないとの保線関係所からの要請で一時訓練を中止していた期間があった。しかし、これから機関士になる人も含め既存機関士の技量向上に必要な訓練であるとして、後に再開された。 順調に勾配(25‰)を克服しつつ、東横瀬~芦ヶ久保間の標高差52㍍の3分の2、芦ヶ久保駅へ800㍍(高低差16㍍)に差しかかる辺りが単機牽引のE851形にとっては胸突き八丁となり、主電動機の唸りも一段と高まる。まさに祈るにも似た気持ちで“もう少しだ、頑張れっ!”と、心の中で叫びながら握るハンドルにも力が籠もる個所だ。時間にして僅か5分30秒ほどの挑戦ではあっても、機関士にとっては最も力が入る、長くも感じられる区間であった。ともあれ、勾配が続く線区における貨物列車の運転は、坂を上るにつけ下るにつけ常に安定した運転を行うためには、相当の技量と経験を必要とすることを不断の運転の難しさで知った。 重量貨物列車を52㍍の高みへ引っ張り上げ芦ヶ久保に到着したE851形は、重連運転時にはここで補助機関車を解放し、一息入れて、サミットの待つ正丸峠へ3㎞・標高差21㍍を登る力闘に向け再び出発して行く。運行によっては、一息入れずに、一気にサミットを目指す列車もあった。そのサミット(標高337㍍)も、E851形のパワフルな力走の下45km/hで束の間に越え、ここを過ぎれば後は秩父線起点の吾野駅まで、最急25‰を含む連続下り勾配を9㎞・標高差152㍍を下る。 25‰の下り勾配に対して許される運転速度は40km/h以下(ブレーキ性能上)であって、この速度を保持(定時運転確保上必要)して降坂するのは、電気ブレーキを持たず空気ブレーキに頼る貨物列車では並大抵のことではなかった。長い下り勾配を空気ブレーキにより一定範囲内の速度を保持して降坂するには、ブレーキ力と下り勾配による列車の加速力とが釣り合うようにブレーキ操作を行い、ブレーキを掛けたままの状態(電車のように短い周期でブレーキの繰り返しができるようには貨物列車のブレーキは機能しない)で下ることになる。この均衡した速度で下るブレーキ扱いが、空気ブレーキに頼る貨物列車では特に難しいのである。 機関車のブレーキ倍率(ブレーキシリンダピストンに加えられる空気圧力が、基礎ブレーキ装置によって拡大され制輪子に伝えられる倍率)は貨車のそれに比べて大きく、ブレーキを掛けたままでの降坂では機関車は列車全体の抑速に対して負荷(ブレーキ負担)を大きく抱えることになり、場合によっては機関車の車輪(タイヤ)に過熱等による支障を来す恐れもある。こうした支障を避けるため、実際には降坂に伴う機関車自体の加速力の抑制を連結している貨車(連結両数による)に分割負担させるかたちで、機関車自身はブレーキを緩解した状態(俗に言う貨車におんぶして)で降坂するブレーキ操作を行う。また、降坂中における小範囲の増速に対しては、機関車のブレーキ(単弁)調節を介して加速を抑える取扱を行うこともある。 こうした降坂方法が採られる以前は、先輩機関士たちの語るところによると、秩父線開業当初においてはかつて25‰もの下り勾配を長い距離降坂する運転のノウハウを持ち合わせていなかったため、40km/hの制限速度を守るのに機関車も含めた列車全体のブレーキを掛けたままで降坂運転していたという。その結果、機関車のブレーキ負担が増すことになって、稼働後それほどの日を経ずしてE851形4両全機の動輪の幾つかにひび割れ(タイヤ外周)を生じさせてしまった。これは、開業(10月)後、11月に入って寒さが募り始めた頃に、機関車のブレーキを掛けたまま降坂したことで車輪が極度に帯熱していた状態のところへ、停車駅毎の停車間合いに山間部独特の冷気に急激に冷やされることが連日にわたって繰り返されたため、タイヤ外周に沿ってひび割れが発生してしまった。このとき、結果的には、一度に10年分以上の使用にも匹敵する量(厚さ)を新製後間もないE851形全機のタイヤから削ってしまったということです。 空気ブレーキのみに頼る降坂では、安定した均衡速度を保持することは非常に難しく、同じ条件下であっても同じように上手くいくとは限らない。むしろ、1回のブレーキ扱い(抑速)で定められた範囲内の均衡速度で降坂できることの方が、珍しいくらいであった。電車と違って、不用意に再ブレーキ操作(ブレーキを一旦緩解した後、再度ブレーキを掛ける)を繰り返すとブレーキ力の不足を来たし、過走や暴走等の不足の結果を招きかねない。出来うる限り再ブレーキ操作を最小限に止め、再操作に至った場合でも次のブレーキ力が確保できる見極めをしっかり行うことが肝要で、できれば1回に止めて降坂するブレーキ扱い・技量が必要とされる。 しかしながら、実際には組成車両の状態によって降坂中にブレーキ管からの空気洩れが進んでブレーキ力が増し、速度が低下してしまうケースの方が多かった。当然、このままでは運転時分に影響が出てしまうので、適正速度への回復に再ブレーキの扱いが必要となった。 この降坂中の再ブレーキ扱いでは、連結貨車の両数が多ければ再ブレーキに備えて必要な圧力空気をブレーキ装置に込める時分もそれ相応に必要となり、その間の増速を十分に考慮して再ブレーキ操作を行う地点・速度の見極めが最も大切であった。しかも、再ブレーキの繰り返しは運転時分を増長させ、ブレーキの喪失という最悪の結果にもつながりかねず、最小限に止めた再ブレーキ操作が降坂運転に強く求められた。 こうした勾配を下る運転にも難しさがあって、それだけに標高差152㍍を無事に下り終えて吾野駅へ進入できたときは、安堵感とともに、その充足感に何ともいえない気分であった。ちなみに旧国鉄では、長い区間を降坂中に洩れた空気量を補給しつつ、ブレーキ力が増加するのを抑え速度を一定に保つ操作方法、すなわち“補給制動法”なる方法も採られていた。しかし、この方法は高度の技量を要し、失敗が許されない操作方法でもあった。  一方、上り列車における降坂が大変な正丸トンネル信号場~吾野間は、下り列車の登坂においても一苦労であった。吾野~正丸トンネル信号場間の登坂に関する線路条件(括弧内は東横瀬~正丸トンネル信号場間の登坂条件)は、標高差152㍍(72㍍)・25‰上り勾配総延長4.3㎞(1.7㎞)・R300の介在率45%(26%)となっており、登坂条件としては上り列車より下り列車の方が倍に増して厳しかった。ただ、機関士にとって幸い(?)であったのは、同区間にE851形が定数一杯(57両:570㌧)を牽く定期運用がなかったことだ。また、E851形に限らず、旧型機関車の全ても秩父線内に入線して貨物輸送に就いていたが、特に、小型機関車(E21・E41)はほとんどの場合に定数一杯(20~25両:200~250㌧)を持たされ、25‰登坂時の速度も25~20km/hそこそこに落ち込み、それこそ忍の一字で頑張っていた。 とはいえ、強力機E851形といえども、ときには安閑としていられない場面に直面することもあった。 三菱のセメント工場へ燃料の重油を輸送する下り列車に連結される重油積みタンク車は、組成上常に後部に連結された。このため、E851形と重油積みタンク車の間に2軸貨車などの空車が10両前後も挟まれて組成されると、後部に連結されている重いタンク車が4~5両ともなれば、長い紐の先に分銅を結び付けた格好となる。こうした編成で吾野駅を出発(通過)すると、駅構内からすでに25‰の上り勾配が始まっており、速度が十分に伸びないうちに25‰・R300の急勾配に懸かり、牽引重量こそ350~400㌧前後(定数の6~7割程度)でありなから、後部に連結の重いタンク車が分銅のごとくに働いて一気に走行抵抗が増し、速度も容易に伸びてこなかった。しかも、天候や線路状況によっては空転に悩まされ、ときとして大空転に見舞われることさえあった。特に先行列車(電車)があると、その運転状態により架線電圧が変動(200~300V)するのだ。こうしたときには、復圧(1500V)に備えて計器を睨みながら空転防止(電圧急騰による機関車引張力の急増)に気を揉むこと頻りであった。 こうして、たとえ荷は軽くとも牽引する貨車の組成形態によっては、吾野~正丸間を運転する下り列車に対する気配りには相当の差があった。私も、この区間では一度大空転を経験した。E851形の直後に、2軸貨車の空車8両と空のタンク車3両を連結し、その後部に重油積みタンク車5両が付いた390㌧余りの荷を持って、小雨模様の吾野駅をいやな予感とともに出発した。小雨をついての運転に普段より速度の向上に手間取り、25‰の上り勾配にR300の反向曲線が絡む個所に列車全体が懸かったとき、架線電圧(変動)に気を緩めていたため瞬時に空転が始まり、すかさず砂撒き、ノッチ戻し、単弁急扱い等の空転抑止操作も空しく、時機を逸して大空転に至ってしまった。赤い機関車は灰色の砂煙に包まれ、自然停車直前に陥った。からくも、一旦停車扱い後、慎重に引き出して事なきを得たが、誠に冷や汗ものであった。 10分間の集中力、これが吾野~正丸間の降坂・登坂運転の鍵を握った。 ○ある貢献  新製のE851形は、営業運転に入ってから運転に支障を及ぼすような故障もなく、期待通りの性能を発揮し、活躍を続けた。 私がE851形の運転に携わって間もなく、運転上において不都合な状況がしばしば発生するのに気付いた。その後、1年近くにわたって乗務の中で自らデータ収集を行い、それを基に改善策(制御回路の改良)をデータとともに関係所へ具申した。幸いにして、メーカー(三菱電機)側の協力もあって改善が受け入れられ、不都合な状況は改善された。この改善は、空転誤検知に係わるものであった。 E851形の空転検知方式は組み合わせ主電動機間の発生端子電圧を比較する方式で、一方の軸重移動補償制御(空転を抑制して粘着効率を高める)は主電動機の界磁率を制御(弱め)する方式であった。軸重移動補償の制御が行われているときは、組み合わせ主電動機(1~4、2~5、3~6)の各々の界磁率が異なっているため空転検知回路の回路抵抗値を各界磁率(発生電圧)に合わせて調整する必要があり、その調整は継電器の切換によって行われていた。 これに対して、軸重移動補償制御を行う主電動機の界磁率制御は、操作電動機(パイロットモータ)によるカム軸の回転で界磁率制御用接触器を開閉させることで行われていた。この双方の制御手段の違い(継電器とカム軸)により、相関にある空転検知回路と軸重移動補償回路の制御に関わり、軸重移動補償界磁から全界磁へ移行する際に継電器の切換作用とカム軸の回転作用との間には必然的に過渡的な作用時間のズレ(電気的作動の継電器と物理的作動のカム軸)が生じ、それが運転状態のある範囲の条件(速度30km/h以上、主回路電流150A以上)と関連して空転誤検知を招来し、空転表示・ノッチ戻し・自動砂撒き等の不都合な制御が行われていたのだ。これは、重量貨物列車の運転にとっては衝動、抵抗制御時間の増長、加速低下、不必要な砂撒きによる走行抵抗増大などに結びつき、平常の運転にとっては誠に不都合であった。空転検知回路改善後の同回路は正常に機能を果たしており、E851形の性能向上に少しでも力添えができたことを自負している。 ○事故に学ぶ 乗務中に、私自らが不本意な事態を招き、会社に多大な迷惑を掛けてしまったことがあった。それは忘れもしない、機関士見習い中の出来事で、貨物列車の入換が最も面白くなりかけた、技量的にもさも向上したかのように思えた頃であった。  国鉄への貨車の中継が池袋駅で行われていた当時(1976年2月まで)、早朝に東横瀬を発って上ってきたE851形の牽く列車は、池袋駅で50分にも及ぶ入換を行う。ほぼ定例的な入換が多かったため、当時、入換の細かい打ち合わせが乗務員と操車係員との間で普段は行われていなかったようだ。そうした状況の中で、池袋駅での入換はこのときが3度目であったが、指導機関士の指導の下、入換に専念していたときであった。線路間の渡り線を通って別線の作業に入る途中、その渡り線上で連結していた車両(緩急車1両と化学製剤積載タンク車1両)のうちタンク車を走行中に解放したらしく、悲しいことに見習いの身の経験不足では牽引重量の軽減を感じ取ることもできずに、そのことには全く気付かなかった。指導機関士からも何も言われず、ましてやこうした入換の方法があることさえ知らなかった。 別線の作業を終えた後に、表示された連結合図を、よもや渡り線上などにタンク車が切り離されて在るとは思ってもいなかったので、駅寄りに解放して置いてきた車両への連結と思い、後進で速度を上げた。バック運転のため渡り線や進路方向は見通せず、操車係員の合図のみが頼りだ。が、まもなく大きく節制合図(速度を落とせ)があった。随分早い節制だなと思ったが、速度を落とす間もなく赤色旗が激しく打ち振られ、渡り線上のタンク車に激突してしまった。連結していた軽い緩急車は、両端の重い車両にサンドイッチにされ、足回り部分を損傷してしまった。 数本の側線と本線路を挟んだ向かいが当時の西武鉄道本社社屋で、朝の9時半頃とあって本社員もほとんどが出社していた。このときの衝撃音がまた凄まじく、辺り一面に灰色の塵埃がもうもうと舞い上がっている現場を、本社の窓という窓から何事かと凝視する顔、顔、顔があった。穴があったら入りたいというのは、こうした状況を言うのかなと偏に落ち着いた思いでいながらも、いたたまれない気持ちであった。まさに、孤軍、さらし首にでもあったような心境を味わった。 誠に汗顔の至りで、指導機関士の大先輩には多大なご迷惑をお掛けしてしまった。勿論、折り返しとなる担当貨物列車の発車時刻は、定刻を大幅に超えてしまった。同時に、損傷を与えてしまって緩急車の回送手配にも、多大な手間と時間を浪費させてしまった。 この苦い苦い経験は、後の私にとって電気機関士としての職責の自覚と技量の錬磨に、大きなしかも貴重な契機となった。 ○強力機にもしくじり 強力機のE851形も、ときには苦汁をなめたこともあった。東横瀬~高麗間のセメント輸送は、上り列車で輸送してきたセメントを高麗駅で卸し、折り返し下り列車で空になったタンク車を牽いて、東横瀬へ戻るパターン(1日2~3往復)であった。 ところが、高麗駅でいざセメントを取り卸す段になって地上の取り卸し装置が故障し、折角持ってきたセメントをそのままそっくり発駅の東横瀬へ持ち帰る羽目に陥ることが、ときにはあった。これが悪天候と重なると、機関士にとっては誠に恨めしくなるのであった。しかも、よりによって天候の悪いときに限って装置が故障するのであった。 秩父線内の登坂条件は前述したように、下り列車の方が上りに比べ倍に増す厳しさがあった。通常、下り列車は定数一杯(630㌧、後に570㌧に軽減)を牽いて登坂する運用はなく、運転上馴染みが薄かった。そのため、雨ともなれば一層の操縦技量を傾けなければ登坂はおぼつかなかった。特に、吾野・西吾野両駅は最終ポイントを過ぎると、直ちに25‰・R300の上り勾配に懸かる。如何にE851形といえども、定数一杯を持っては速度の向上はままならず、好天のときであっても空転を誘うのに、それが雨とくれば機関士は空転の餌食にされた。 線路の条件(勾配、曲線、塗油個所)や状況(雨の降り始め、こぬか雨、霜、降雪、落ち葉)が極度に悪いと小空転を繰り返し、連続して砂撒きをすれども速度は遅々として向上せず、少しでも油断すると大空転に移行し、自然停車に陥ってしまう。ただ、組成が一律のタンク車だけで、延長両数(電車6両程度)も短く、前後動の揺さぶりが少ないことが唯一の救いではあった。が、空転のため自然停車に至り、引き出し困難に陥って、後方駅へ退行を余儀なくされたことも何度が起きた。 また一方、上り列車においても、東横瀬~芦ヶ久保間の単機定数牽引列車では、芦ヶ久保駅構内進入手前が25‰上り勾配の胸突き八丁となって、小雨等のため空転が頻発してATSを動作させるに至って急停車、引き出しが出来ずに救援を仰いだことも何度か起きた。このように、山岳区間で機関士は極度に神経をすり減らし、空転と闘い続けていたのである。 ちなみにATSの速度照査は、車軸取り付けの速度発電機からの速度情報とATS速度パターンを突き合わせて行うため、速度発電機装備の車輪が空転によりATS速度パターンを超えてしまうと、ATSにより急停車となる。 E851形にとって登坂できて当たり前、状況はどうあれ救援要請はE851形自身の強力機なるが故のプライド上、残念に感じているのではとの思いを巡らしながら機関士の一人として私も労りと励ましの気持ちを、赤い電機にそっと持つのであった。 ○ロイヤルロード 国鉄への中継が新秋津になって以降(1976年3月)、西武の貨物列車にとってロイヤルロードであった所沢~池袋間へE851形は、唯の一度もその歩みを進めることは叶わなかった。その、かつてのロイヤルロードへの助走は次の如くに始まる。 …三菱セメント東横瀬工場専用線で、まだ明けやらぬ朝まだき、セメント積載貨車群1000㌧を連結したE851形重連機関車は、70㎞余り先の終着・池袋駅へ向けその輸送の途につく。 次駅の芦ヶ久保で補助機関車を解放し、単機となった赤い電機は1000㌧牽引の本領発揮となる。途中の狭山ヶ丘駅で一部の貨車(セメント袋詰め積載車)を解放した列車は、荷が少し軽くなったとはいえ、800㌧を超える。 所沢駅(機関車・貨車の検査修繕を行う車両管理所所在駅)で、運用上の機関車交換を行う。整備に万全を期したE851形が新たに連結され、現車17両・換算84.5両・延長23両の先頭に立つ赤い電機は、朝のラッシュが終盤に向かいつつある中を、普通電車の間を縫って一路終着池袋へラストスパートをかける。タンク車を連ねた長編成を牽く赤い電機は、朝日の輝きを真正面に受けて、貨車の黒く鈍い輝きとは対照的に彩りも鮮やかに、ラッシュアワーのホームに列をつくる大勢の乗客の面前を主電動機とブロワーの音を豪快に力強く響かせ、最高速度の55km/hをキープして悠然と通過する。 駅で待ち合わせ中の電車の傍らを、堂々と本線上を快走する気分は特急電車などの比ではなく、E851形が高運転台であるからこそ味わえる最高の醍醐味であって、貨物輸送にあって機関士としてこの上ない満足感に浸れる区間である…。 機関士にとって最高の優越感を味わえたそのロイヤルロード、池袋駅での貨物の中継が消えてしまった今となっては、願っても叶えられない幻の行路となってしまった。当時のあの高揚した気分を得ることが叶わない後輩機関士たちに、あの素晴らしい醍醐味を分かち合えないのが誠に心残りでもある。 ○エピローグ 私が、機関車なるもののハンドルに最初に触れたのは、E851形電気機関車であった。電気機関士見習いとして初めて座る高い機関士席、電車に慣れた身にはとにかく高く感じた。両端に2両の緩急車を連結し、空車とはいえ11両のタンク車を連ねた赤い電機、指導機関士から「1ノッチ投入!」の声がかかり、手の震えを抑えてハンドルを進めた次の瞬間、静かに力強く動き出したあの一瞬の感激に、気分が最高に高揚した。未だに私のこの手が、ハッキリとあの時の感触を覚えている。電車では決して味わうことの出来ない、あの1ノッチ投入による引き出しの瞬間は、私が貨物列車に最大の魅力を感じるところであった。 かつて堂々と重量貨物列車の先頭に立ち、勇躍としてサミットへ果敢に挑み続けたE851形電気機関車は、今、静態保存の形でただ1両が横瀬車両管理所に在る。  (終)                                                                                           

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LANが動くようになったAtomさん。でも更なる試練が待ち受ける。 USBのHDD(NTFSでフォーマットしてある)をマウントしようとした。まずはどこにくっついたか(デバイス位置)を確認する。 [[email protected] ~]# fdisk -l /dev/sda Disk /dev/sda: 40.0 GB, 40007761920 bytes255 heads, 63 sectors/track, 4864 cylindersUnits = シリンダ数 of 16065 * 512 = 8225280 bytes デバイス Boot Start End Blocks Id System/dev/sda3 2 4864 39062047+ f W95 Ext’d

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