森雅之と元宝塚の梅香ふみ子の不倫関係で生まれた女優、中島葵だが、・・・・・その作品集がある。栗本薫がまたのペンネームを「中島梓」としていたので「梓」と「葵」、どうしても本職の作家の中島梓(栗本薫)の名が知られており、今なお中島葵の名は一般に知れ渡っているとは思えないし、今後、さほど知れ渡りそうにもないが。森雅之は有島武郎の息子、文学座の俳優で映画出演で歴史的な名優に数えられている。  「作品集」は詩や少文を数多く収録している。森雅之に認知を求めて上京の際の話。  ある書家の日のこと、スクリーン以外では見たことがない父と会うために、一人で上京した。  父との当たり障りのない会話はとっくに途絶え、私は庭に咲いているバラを、ぼんやり見ていた。グローリー、グローリー、ハレルヤ、グローリー、近所の誰かがトランペットの練習をやているらしい。風に乗り、同じフレーズばかりが、父と私のいる部屋の中を行きつ戻りつ、していた。  下手なトランペット、父がつぶやいた。私もそう言おうとしていたのだ、期せずして同じ気分であることが嬉しかった。調子づいた私は  「ネエ、パパ」と甘ったれていった。  「パパはなぜ私のパパじゃないの?」  しばらくして父は答えた。「それは宿命だ」  私は十四才だった。  時間は駆け抜ける、父も死んだ。だが父が私に投げてよこした「宿命」という言葉は私の中で膨らみ続ける、私は父に代わりて私に手紙を書く、「子は父を選ぶことが出来ない・・・・」  さて、作品集でなく「女優 中島葵」追悼集、限定出版であるが、多くの人の温かい追悼文が収録されている。  その後、一般販売の「作品集:が出た。第一巻は『小さな劇場』というタイトル、第二巻が『もう片方の運動靴は咲き乱れる花の中に落ちている』  至って素直な読みやすい文章と思える。遺稿集という響き、陰惨さはかけらもない。  女優といいながら前半は日活ロマンポルノに入れ込みすぎて、存在感を失った、だが後半があった。森雅之と梅香ふみ子を両親にされど私生児としてうまれ、結婚、離婚し、妊娠し、子宮を失った。辛酸に満ちた人生だったと思うが、しかし惨めさはない。片山令子さんはこれを評して  中島葵がこう言っているように思えた  「今、私は、自分の詩を望遠鏡で眺めているのよ」  作品集から『ヘンデルとグレーテル』  まだ知り合って間もないころ、男が道路工事のバイトをしてい神田神保町の交差点から電話してくる「お昼を持って遊びに来ない?」彼女はシチューを作り、ガムテープを貼り、託しニーノってそこに行く、工事の男たちと路上でランチを摂り、みんなで高級レストランから取ったコーヒーを飲むのだが、その時のこと  「十一人の男たちは、コールタールのへばりついた野太い指で、泥で汚れ割れた爪をして、手に手に磁器の白いティーカップを持ち上げ、受け皿をもう一方の手においてまるでそれを毀さないようにと、心を込めて大事そうに一口づつ口に運んでいく」  突然路上に出現した至福の時を、的確に描写してあまりない。フットワークが軽い、不幸も包装紙でくるんで自分へのプレゼントにでもしてしまう。  ハワイで母、梅香ふみ子(中島茂香)」と     梅香ふみ子「宝塚をとめ」昭和15年版より    母、中島茂香(元宝塚:梅香ふみ子)が娘に宛てて  『ごめんなさいね、葵。  私のために父のない子供にしてしまって。あなやは四十五年の生涯をきっつつらく寂しい想いをしたことでしょうね。本当に済まないと思います。昭和二十年、戦時中、東京の空襲も激しくなり、いつ死ぬか、と自分の命も分からぬ時、私はあなたを見もごった時、「何が合っても絶対に産もう」と決め、森さんには「熊本に帰って産みます、お願いですから私の父にこれを知らせてください」と頼んで書いてもらいました。私も父に何といわれるか、とても心配で、心細く熊本に帰りました。でも父は黙って頷いて、私に何もいわず暖かく迎えてくれました。既に森さんからの手紙を受け取って読んでいたのです。  ・・・・・・・  その頃、文学座の公演が九州まで来てました。私は葵を連れて、久しぶりに杉村春子先生にお逢いした折、  「梅香ちゃん、葵ちゃんにはお父さんは森さんだということ、隠したりしないでね。ちゃんと教えてあげて」とおっしゃって私を力づけてくれました。  私たちの生活も段々と急迫し、宝塚時代の親友から「小林一三先生にあなたの窮状を伝えた所、先生はとても心配されて、今、新芸座という新しい劇団を作ったので、すぐ来るようにとおっしゃっています」と手紙をくれました。  まだ学校に上がらない五歳のあなたを熊本に置いて関西に行くのは辛かったのですが、生活のためやむを得ず、父と姉にあなたを預けて、十歳までは離れて暮らしました。幸いなことに新芸座は毎月お給料をいただけましたから、仕送りが出来ほっとしました。自分も好きな舞台ですので、とにかく一日も早くあなたと暮らせるようにと、毎日、頑張りました。  公演の合間にはいつも飛んで熊本まで帰りました。いつもおじいちゃんに手を引かれたあなたが嬉しそうに迎えてくれました。  でも関西に帰る日は決してあなたは見送りに来ませんでした。いつもお友達のところに行っ、きっと別れが辛かったのでしょうね。私も汽車がホームを離れる時は涙が止まりませんでした。  葵ちゃん、あなたは物を欲しがらないいい子でしたね。一度だけ「自転車がほしい」と言われた時、私の手には余るので、パパに手紙を書いたらちゃんと送ってくれました。  ついに念願かなってあなたと一緒に暮らせる日が来ました。あなたが小学四年の夏でした。運良く、西宮の県営に入れたのです。  ・・・・・  あなたが亡くなる三日前に、やっと聞き取れる声  「私は肉親の縁は薄かったけれど、芥さんや万代君など、いっぱいいいお友達に恵まれてしあわせよ、ママ」と力を奮って言ってましたね。  私は葵を愛し、それが私の人生の全てでした。葵もそれを分かってくれたと想います。こういった私の想いがあまって、ときに葵にプレッシャーをかけたこともあったかもしれませんん。でも、葵、あなたは本当にあなたらしく人生を生きました。いまはゆっくりやすんでください。そして、その気になったら私を迎えに来てください』   

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JR北海道の石勝線で2011年5月27日に起きた特急列車の脱線・火災事故に重ねて、かつての北陸トンネル列車火災事故(1972(昭和47).11.6)を思い起こした人も多かったのではないでしょうか。 日本の鉄道史上で最悪の列車火災事故の一つ、北陸本線(当時国鉄)の北陸トンネル内における列車火災では30人に及ぶ死者(負傷者は714人に及んだ)を出したが、JR北海道のこの度の列車火災では死者を出すことなく40人の軽傷者に止まったことは不幸中の幸いであった。 事故の翌日、6両編成の特急列車がトンネル外へ引き出され、トンネル内で炎に焙られ焼けだだれた無惨な姿を晒す報道写真などを前にして、大惨事にならずに済んだことに安堵の胸を撫でおろした人も多かったのではないだろうか。                     [ 焼失した〈スーパーおおぞら14号〉・JR石勝線占冠~新夕張間 ]JR石勝線(南千歳~新得間160.3km、新夕張~夕張間16.1km)は、札幌・帯広・釧路方面等への道東を結ぶ北海道における幹線鉄道路線の一つである。その石勝線で、列車脱線・火災事故が起きた。 2011年5月27日午後9時56分頃、釧路発札幌行きの特急(6両編成気動車列車)が占冠~新夕張間を走行中に、先頭から4両目車両(3号車)の床下から推進軸(エンジン動力を車輪に伝える長さ1.1㍍・重さ83kgの鋼鉄製軸)が脱落・落下して後続の5両目車両(2号車)がその衝撃を受け1軸が脱線、特急列車はそのまま約1kmほど走行を続けた。3号車(グリーン車)に乗務していた車掌が床下からの異常音に気付いてその旨を運転士へ通報し、特急列車は先頭が第1ニニウトンネル(北海道占冠村・全長685㍍)に約200㍍ほど入った中央部付近で、緊急停止した。 同列車には、乗客240人と乗務員4人(運転士、車掌、客室乗務員2名)の計244人が乗っていた。緊急停止後、後部車両の1~3号車内に白煙が立ち込め始めていたが、車掌は炎が見えなかったため火災が発生しているとの判断はしなかった。そのため、乗務員の乗客への避難指示や避難誘導がなされないまま、車内に拡がる煙から逃れるため乗客自らがドアの非常用コックを操作して自主的に車外へ避難を始め、乗客全員がトンネルの外へ脱出した。この際、煙を吸うなどして乗客40人が病院へ運ばれて手当てを受けている。 しばらくして、後部車両(最後部車両の1号車と見られる)から出火していた同列車は炎に包まれ、トンネル内で全車両6両が焼失した。この脱線・火災事故により、占冠~新夕張間を含む全区間で不通となったJR石勝線は、事故発生から56時間半ぶりに運転を再開している。                         [ 焼失した〈スーパーおおぞら14号〉の特急車両 ]この事故に関するJR北海道の調べによると、脱落したの3号車の推進軸は第1ニニウトンネルの手前約1.0kmの線路内に落下しており、同トンネルの約800㍍手前からマクラギ上に脱線した車輪の痕跡が続いていたことから、脱線したまま走行を続けていたのではないかという。この点から2号車の脱線は、脱落した推進軸が落下の弾みでレールに乗り上げて車輪に衝撃したか、あるいは台車等に衝撃して起きたのではと、JR北海道では見ている(調査中)ようだ。 また、事故後の調べで、燃料タンク内の軽油が3~6号車には残っていたが、1・2号車は空になっていた。このことから、脱落した推進軸が何らかの拍子で燃料タンクに衝撃して損傷を与え、1・2号車に燃料洩れを起こさせたと推測される。その洩れ出た燃料(軽油)が、高熱を帯びていたディーゼルエンジン部の周りに触れ白煙が発生したと考えられ、火災の引金になったのであろうと思われる。 [ 焼けただれた〈スーパーおおぞら14号〉の車内 ] しかしながら、緊急停止後、車内に立ち込めていた煙を認めながら同列車の車掌は、出火(炎)が認められなかったことからトンネル内で車両火災が発生しているという判断には及ばなかった。結果的に、このことが乗務員の乗客に対する避難誘導等への対処の遅れを誘発してしまった。こうした乗客に対する避難誘導が遅れてしまった背景には、JR北海道における列車火災に対する乗務員の事故処置に関する運用規定やマニュアルの解釈如何にあったようだ。 “走行中に火災が発生した場合、旅客の安全を最優先し、火災から旅客を避難させる”との定めがあり、異常時マニュアルで定める火災とは“炎が認められたとき”とある。すなわち、煙を確認しただけでは“火災”ということにはならないという判断基準が示されていたのだ。 これによって同事故では、乗務員は煙を確認してはいても、炎が出ていなかった(認められなかった)ために火災発生との認識には至らなかったのだ。裏を返せば、煙が出ているていうことは、そこに火種が存在すると考えるのが一般的な認識であり、その常識に疎かったことになろう。俗に、“火のないところに煙は立たぬ”の例えがあるように、規定やマニュアルを遵守するのは大切で必要なことだが、状況判断が甘い上にあまりにも杓子定規的にマニュアルに依存した乗務員等の今回の事故に対する判断(規定の鵜呑み)と言わざるを得ない。当然に、事故情報は乗務員から中央の指令所等へ連絡されているはずだが、乗務員も指令所も煙の発生に対する認識(火災発生のおそれ)に不足があった証でもあろう。 もう一つ、乗客に対する避難誘導に遅れを取った理由に、火災認識の不備に併せ、列車の最後部車両(1号車)でワゴンサービス中の女性客室乗務員が走行中の窓越しに炎が上がっているのを目撃していながら、前方車両(3号車)に乗っている車掌も炎を確認しているものと思い込み、そのことを車掌に伝えていなかった。これも、当該車掌の火災認知と避難誘導に反故を来たせてしまった一因ともなったのではないか。これについてJR北海道は、異常時における乗務員等に対する教育や訓練を今後、早急に見直したいと語る。 ちなみに後日(2011.5.31)北海道警察は、列車乗務員が火災を認識せず乗客の避難誘導等を行わなかったことが多くのけが人を出す原因となった可能性があるとして、JR北海道本社(札幌市中央区)や関係先4ヵ所に対し業務上過失傷害容疑で家宅捜査を行っている。 の事故では、トンネル内における列車火災にもかかわらず、死者を出さずに負傷者40人に止まったことに救われた思いもする。おそらく、列車が緊急停止した第1ニニウトンネルが全長685㍍と比較的短かったのが、大事に至らずに済んだことにつながったのではないだろうか。 今から約39年前に起きた「北陸本線北陸トンネル列車火災事故」は、大阪発青森行き急客第501列車(電気機関車牽引の客車15両編成)が、当時の日本で2番目に長い1万3870㍍の北陸トンネル(最長は山陽新幹線六甲トンネル)内で引き起こした火災事故である。この列車火災では、乗客761人・乗務員30人計791人の乗車人員のうち、乗客・乗務員を含む30人の犠牲者と714人の負傷者を出した。 前頭から11両目の食堂車(オシ17形)から煙が出ているのを認めた車掌が、車掌弁で列車を非常停止させた。このとき、列車は北陸トンネル内に5300㍍ほど入っていた。乗務員は、延焼防止を図るため、火災が発生した食堂車を列車から切り離す作業にあたった。が、暗闇(当時トンネル内照明は乗務員の信号確認を妨げるとして消灯中)と慣れぬ作業で手間取りながらもようやくにしてトンネル外へ脱出運転を始めようとしていた矢先であった。手間取っていた間に、広がっていた食堂車の炎と煙の熱気で垂れ下がったトンネル上部の排水樋が架線に接触して短絡し、架線が停電となってしまったのである。                    [ 救出される乗客・北陸本線北陸トンネル列車火災事故(1972.11.6) ] 停電で動けなくなってしまった列車から、乗客の避難誘導が乗務員の指示で始まっている。しかし、煙と熱気と暗闇の中での避難は、長大トンネルが故の辛酸さを極めた。 この北陸トンネル事故を契機に当時の国鉄では、車両火災事故に対する安全施策を構築するべく、大船工場と狩勝実験線(廃止線)においてそれぞれに実車を使った客車火災実験(1972(昭和47).12)と明かり区間走行火災実験(1973(昭和48).8)を行っている。また、1974(昭和49)年10月には宮古線(現・第三セクター北アリス線)の猿峠トンネル(2.9㎞)内で燃焼させた客車による走行火災実験を実施している。そして、これらによる実験結果を基に、それまでは列車火災時の緊急措置として“列車を直ちに停止させる。ただしその場合、トンネル内はなるべく避けること”と曖昧であった取扱を、北陸トンネル事故以降は“トンネル内火災時には停車せずに走り抜けて、トンネルを出てから消化等の処置を行う”ことに改められ、明確化が図られた。ただ、脱線や停電等の状況によっては、走り抜けることができない事態にも至る。そのような時にこそ求められるのが、乗務員等の臨機応変な状況判断・処置と迅速な避難誘導への対応であろう。 の事故では、乗務員等の処置対応が後手に回ってしまっていたが、幸いと言おうか、緊急停止したトンネルが比較的短かったことで大惨事への道を走らずに済んだのではないだろうか。 ※ 《 関連公開ブログ 「暗闇の災禍・北陸トンネル列車火災事故」2008.5.4 》                [ 桜木町駅構内電車火災事故(1951.4.24) ] 列車火災事故と聞けば、一つや二つはすぐにでも思い浮かぶのでは…。桜木町駅構内で起きた電車火災事故(1952(昭和27).4.24)や前述の北陸トンネル内列車火災事故、隣国の韓国大邱市の地下鉄で起きた列車火災事故(2003(平成15).2.18)などが頭を過る。列車の火災事故は、ともすると悲惨を極める事態に至るケースも多いことから、記憶に強く焼き付くのだろう。 そうした記憶の底から、の脱線・火災事故に触れて、同じ内燃車によるかつての大惨事を改めて思い起こした御仁もおられるのではないか。引火点の低いガソリンを燃料とする、ガソリン動車列車が起こした列車脱線・火災事故である。この事故は、日本の鉄道史上でも最多の死者を出した大事故であった。 1940(昭和15)年1月29日の西風が強く吹きつける午前6時56分頃、国鉄西成線(非電化単線、現在の愛称JRゆめ咲線の桜島線)の安治川口駅構内において、駅周辺の工場地帯に通勤する工員等で満員状態のガソリン動車列車(3両編成)が同駅に到着の折り、同駅信号掛の列車到着確認不十分による分岐器の途中転換扱いで、その分岐器上を通過中の最後部のガソリン動車が脱線して踏切道の敷き石に衝突し、横転してしまった。その際に、ガソリンが満杯近く入った床下の燃料タンクが損傷し、洩れ出たガソリンに何らかの火が引火して火災が発生した。                      [ 安治川口駅構内ガソリン動車列車脱線火災事故(1940.1.29) ] 当時、強く吹いていた西風にあおられた炎はその火勢を一気に増し、横転車両は瞬く間に猛炎に包まれ全焼してしまった。この事故で、即死者や病院搬送後に絶命した者を含め乗客190人が犠牲となり、82人が負傷した。 戦後、ガソリンを燃料とする内燃車は、引火点の高い軽油を使用する現在のディーゼルエンジンによる気動車に替わった。これには、高効率と経済性に優れるディーゼル機関の採用を図ったことのほかに、前述の西成線の悲惨な列車火災事故で得た教訓が生かされている。 今では、気動車列車がローカル線はもとより幹線鉄道輸送の主力としても日本全国で活躍をしているが、今日のような難燃耐火構造による火災に強い鉄道車両であっても油断するのは禁物であることを、この度ので起きた列車火災に見ることができる。 ※ 《 関連公開ブログ 「気動車炎上から70年目」2009.3.24 》蛇足になるが、(JR石勝線)の事故から10日後の2011年6月6日(午前8時半頃)にも、JR北海道室蘭本線(長万部~沼ノ端間144.0km・沼ノ端~岩見沢間67.0km・東室蘭~室蘭間8.1km)で札幌発函館行き特急(7両編成気動車列車)が、と同じような床下から白煙を噴く事故を起こして運休に至っている。 同列車が、伊達紋別~長和間の伊達市内を走行中に、運転席のモニターにディーゼルエンジンの異常(排気管の高温)を知らせるランプが点灯しているのを認めた運転士が、通過予定だった長和駅に臨時停車して調べたところ、3号車(先頭から3両目のグリーン車)の床下エンジン付近から白煙が立ち上がっていた。運転士がエンジンを止めたところ、間もなく煙は収まったが、前途運転の安全を考慮して同列車は長和駅で運転を打ち切っている。幸いにも、130人全員の乗客は無事で、後続の特急列車に乗り換えて事なきを得ている。ちなみに白煙を出す事故を起こした〈スーパー北斗2号〉の車両は、JR石勝線のトンネル内で脱線・火災事故を起こした〈スーパーおおぞら14号〉と同じ形式の車両(キハ283系)であった。 両特急列車の事故は、〈スーパーおおぞら14号〉の場合は床下から脱落した車両部品が燃料タンクに損傷(脱線にも至っている)を与え、洩れ出た燃料が高熱のディーゼルエンジンに触れて発煙・発火したが、〈スーパー北斗2号〉ではディーゼルエンジンの弁装置の不具合から洩れ出た潤滑油が、高温のエンジン排気管に付着したことにより発煙に至っている。とにかく、発煙事故にいたるケースは千差万別であろう。 いずれにせよ、気動車は動力源の燃料として軽油を使用しており、安全対策には万全が講じられているとはいえ“火の元”を内在していることに変わりなく、事故の対処・対応に後れを取れば列車火災へと発展しかねない宿命的な要素を気動車列車は抱えているといえる。せめて今は、〈スーパーおおぞら14号〉の如き列車火災事故が再び起こることのないように念ずるばかりである。 (終)

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キスイセン(黄水仙)はラッパスイセン(喇叭水仙)のようにスマートではない。 花を咲かせる草花の少ない早春を、鮮やかな黄色で彩るキスイセン(黄水仙)はまさに鮮烈で、古来より 広く好まれている色の1ツである。けれど、あの溢れるような花びらの重なりと強い野生の香りは、今更に懐かしい。 母の田舎で一面に咲いている黄水仙の花と葉の林の中に埋もれた幼い日を、ふと思い出した、………。 春………まだかな….。 キスイセン(黄水仙)の名前は、花の形がニホンスイセン(日本水仙)に似ていて、色が黄色であるからに由来する。 ひがんばな科スイセン属の多年草である。学名は「Narcissus tazetta」であるが、 属名の「Narcissus(ナルキッサス、ナルシサス)は、ギリシャ神話の美少年「Narcissus(ナルキッサス)」の名前にちなみ、種名の「tazetta」は、イタリア語の「小さいコーヒー茶碗」を意味している。原産地は地中海沿岸。ヨーロッパでは古くから栽培され、改良も重ねられてきた。関東地方以西、九州に分布している。面白いところでは、地下にあるスイセンの鱗茎(球根)は、花の芽が出来るのは7月ごろ始まり、その後次第に花芽が発芽して、細くしなやかな花茎は、根元の葉が数枚でそろった後にすくっと伸びてくる。 気温が上昇すると蕾はふっくらとしてきて、6枚の花被(萼と花弁)が匂うように開く。中心に愛らしく口を開けた筒状の花びらが1枚ついている。カップ状の「副花冠」があるのが特徴である。「副花冠」のなかには1本の雌蕊と6本の雄蕊が上下2列ありしっかりとガードしている。キスイセン(黄水仙)は、内、外花被片がヤマブキ色、副花冠が鮮やかなオレンジ色をしていることに特徴がある。品種は沢山あって、特に「日本スイセン」は馴染みが深い。面白いのは茎の先に5~6個の白い花が香りを漂わせながら、恥じらうように横向きに付くことである。中心の副花冠は黄色である。沢山の品種の生みの親は「キスイセン(黄水仙)」で濃黄色の花をぱっと咲かせる。 大形の花をブローチのように1個だけ横向きに付けて自己主張するのは「ラッパスイセン(喇叭水仙)」。花びらは淡黄色である。副花冠が喇叭の形にそっくりなのでこの名が付けられた。何とも色気があるのは「クチベニスイセン(口紅水仙)」。茎の先端にこぢんまりと一花を付けている。花びらは白く、副花冠は黄色いが、口紅を付けたような縁取りに魅力がある。ニホンスイセン(日本水仙)は、シルクロードをはるばると旅をして日本の各地で野生の花となった。 ちなみにスイセン(水仙)は金盞(きんせん)とも呼ばれており、24節気の「立冬・72候」の3候にも「金盞香・きんせん咲く」と解説されている。あっちでも、こっちでも、スイセン(水仙)が花盛りだが………。スイセン(水仙)と言えば、ギリシャ神話に登場するナルキッソス(Narcissus)。だが、キスイセン(黄水仙)もまた、ギリシャ神話の中で、エピソードになっている花である。冥界の王ハーデース(Hādēs)とベルセポネー(Persephone)の出会いのシーンに出てくる。 ティーターン族との戦い後、巨人族と戦ったゼウス(Zeus)たち兄弟は、捕まえた巨人族をアイトナ火山の下に生き埋めにしたのだが、彼らが時々暴れて、地面を打ち振るわせるものだから、冥界を支配していたハーデース(Hādēs)が、視察に回っていた。それを眺めていたアプロディーテー(Afrodivth) は、ふと思いついて、息子のエロース(Eros)に命じ、彼の胸に恋の矢を打ち込ませ、ペルセポネー(Persephone)に恋をするように仕向けた。 アプロディーテー(Afrodivth)の企み通り、ハーデス(Hādēs)はエンナの谷で友人たちと花摘みをしていたベルセポネー(Persephone)に夢中になり、彼女をさらって冥界に連れて行ってしまう。その時、ベルセポネー(Persephone)の手から零れ落ちた白いスイセン(水仙)が、黄色に変わりキスイセン(黄水仙)になったと言われている。スイセン(水仙)の自生地である越前海岸はこんな伝説がある。平安末期、京攻めの木曽義仲に従った居倉浦の男が帰郷したとき、留守中に弟が海で助けた娘を我がものにしようと、仲のよい弟と果たし合いになった。悲しんだ娘は海に身を投げたという。次の年、娘の化身のような美しい花が海岸の流れ着いた。それが根づいて今のスイセン(水仙)になったという。海に身を投げた女性の生まれ変わりとして、その悲しみから海を見つめながら咲く花といわれている。 また、千葉県の南房総もスイセン(水仙)が名産で、その昔、花園天皇(鎌倉時代)の姫が武家の圧力から淡路島へ逃げる途中で遭難し、海流に流され房州の和田浦へ漂着。その時に持っていたスイセン(水仙)が野生化して、県内各地に広がったという伝説がある。 スイセン(水仙)の花言葉は、もう一度愛してほしいである。なかなか粋で人の心をそそる。ポストカード Nikon デジタル一眼レフカメラ D700 レンズキット D700LKニコン 2008-07-25 Amazonアソシエイト by

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とうとう、ハリオの「珈琲王2」を購入。淹れる杯数で、蒸らし・抽出の時間を変え、シャワー状の断続注湯でベストな味を出すというシロモノ。買って満足、納得のものだった😊ご検討中の方はぜひ。 (ここからはうるさいウンチク)このドリッパー(ろ紙とサーバー)、ハリオ独自のV60は長年愛用。抽出を速くも遅くも自由自在、だから、淹れる人の腕前が明らかに味に出るため、豆の煎り具合や挽き具合に合わせて、抽出を調整するのが腕の見せどころ。 これまで、コーヒーメーカーは持っていたけれど、朝タイマーで珈琲が出来ていたらなぁ、とか、アイスコーヒーを6杯分まとめて淹れて氷で冷やす時にとか、味より利便性を優先する時にしか使っていなかった。 が、長引くステイホーム期間、サッと美味しい珈琲を淹れてくれる助っ人が欲しい~!と。 珈琲王2は、まず、愛用のドリッパーがそのまんま機械に載ってるだけっていうのが良い✨ありそうでない、理想の形。 ハンドドリップ用のドリッパー=マシン用、というのは、オラが知る限りではハリオとカリタだけだと思う。ドリッパーを自社開発・販売していて、その形がベストだと自信があるんだろうと感じられる。 肝心の抽出の腕前も、大変良かった!良い豆・適切な蒸らし時間・上手な注湯、三拍子揃ったら、最後にきれいなすり鉢状の豆カスとアクが残る。珈琲王2の豆カス、なかなかの腕前・・・満足。 あと、センサーが優秀で、抽出終了時のお知らせピーピー音が、最後の数滴が落ちるちょっと前のタイミング。賢い!!(最後は捨てたい) 元喫茶店員のオラのハンドドリップに近い味が出せてると思う・・・手前味噌だけど、オラの珈琲は旨いのだ。オラの好みより、ほんのわずかに抽出速度が早いので、少し粉の引き具合を細めにしてみようかとトライしているところ。 これは、だいぶ前にUPした、カリタのナイスカットミル。現在この型式はプレミアがついて6万円超えの価格がついているが、なんと、イオンで展示品限り5,000円で入手。本当に買ってよかった。月に1回分解掃除して、大切に使っている。※入手の顛末はコチラ オラのコーヒーにまつわるブログ記事はこちら。

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前回ブログの続きです。前回は中古で購入した娘家族の日産ルークスGのホイールキャップの傷の修理について書きました。今回はスチールタイヤホイールの錆の修理についてです。 スチールのタイヤホイールも相当錆びています。前輪右のタイヤホイールの表面(おもてめん)です。修理したホイールキャップの下に錆びたホイールが見えています。 ホイールキャップを外しました。ホイールキャップの開いている所が錆びています。また全体に錆びた鉄粉とか土等の汚れがこびり付いています。 タイヤホイールの裏面(うらめん)です。表面と同じように錆びた鉄粉とか土等の汚れがこびり付いています。 こびりついた物を取り除き錆を研磨し黒色塗装をしたいと思います。作業はブルーシートの上に新聞紙を数枚敷いて行いました。 修理に使った道具と材料は工程ごとに説明します。いずれもホームセンターで購入しました。まず汚れと錆を落とすためにワイヤブラシ(約330円)を使いました。 前輪右の表面と裏面です。ワイヤブラシで擦って汚れと錆を落としました。 タイヤ1個から出た汚れと錆の量です。 更に汚れを落とし錆を研磨するために研磨剤ミガキロンZ(約220円)の粗目と細目を購入しました。ミガキロンZは柔らかいので紙ヤスリより使いやすいです。粗目を半分に切って使いました。 前輪右の表面をミガキロンZで研磨する前と後です。錆びている所は何度も研磨し、そうでないところは擦って汚れを落としました。かなりきれいになりました。 前輪右の裏面を研磨する前と後です。擦り汚れを落としました。 最後に全体の汚れを落とすために、バスマジックリンとスポンジとミガキロンZ粗目を用いて洗浄しました。スポンジよりミガキロンZの方がよく汚れが落ちるようです。(ミガキロンZの細目も購入したのですが、結局使いませんでした)前輪右の表面の洗浄前と洗浄後です。錆びていた個所の周りの錆は落ちていますが、真ん中は残ってしまいました。そのままで塗装することにしました。(矢印の部分)将来そこから錆びて来るかもしれませんが。 前輪右の裏面の洗浄前と洗浄後です。裏面はきれいになりました。塗装する積りでしたが、塗装しないことにしました。 最後の工程の塗装です。塗料はつやなし黒(約1,100円)を購入しました。 つやなし黒でスプレー塗装を行います。スプレーをする前に準備が必要です。一つはエアバルブのマスキングです。養生テープを使ってマスキングを行いました。 もう一つはタイヤに塗装が付かないようにタイヤのマスキングを行ないますが、タイヤは困ったことにマスキングテープ、ガムテープ、養生テープ、セロテープ等が接着しないのです。そこでタイヤとホイールの間に13cm角の薄いプラスチックコーティングされた紙を挟むことにしました。(古いトランプも使用できます) プラスチックコーティングされた紙をタイヤに挟み込んだ状態です。13枚を挟み込んでいます。これでタイヤに塗装が付かなくなります。 15~20cmほど離れたところから全体にスプレーします。塗料が乾くまで少し時間(5分~10分)をおいて合計2回スプレーしました。前輪右の表面の1回目の塗装後です。 前輪右の表面の塗装前と塗装後です。 塗装が終わりました。4個のタイヤホイールの塗装後です。 前輪右の表面にホイールキャップを付けた状態です。 前輪右の表面:作業前の状態(上側)と完成後(下側)です。 前輪右の裏面:作業前の状態(上側)と完成後(下側)です。裏面は汚れを取ったらきれいになりましたので、塗装はしておりません。 ルークスGの後輪の状態です。修理前です。 修理後です。

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死に山 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相 [ ドニー・アイカー ]楽天ブックス 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相 ドニー・アイカー 安原 和見 河出書房新社シニヤ 楽天市場  ちょっと前から各所の書評に出ていて、ずっと気になっていた本をついに読了。『死に山』ドニー・アイカー著。ロシア(ソ連)の怪奇事件として名高い「ディアトロフ峠事件」の真相に迫るドキュメンタリー。  事件は1959年2月に発生。ソ連のウラル山脈にてトレッキング中の学生を中心としたグループ9人が怪死したという事件。その死に様が異様であったことや一人だけ途中で引き返した生存者がいたことから、さまざまな説が唱えられてきた。雪崩に巻き込まれた、強風で吹き飛ばされた、誰かに襲われた、核実験かロケット発射に巻き込まれた、UFOに遭遇した、、、(この辺の細かいとこはウィキでも見てくれ)どれも真相のように思えどれもそうでないように見える。そんな中、著者がわざわざロシアに2回も行き、近年亡くなった唯一の生存者や関係者にインタビューし、さらには真冬に彼らがたどった登山ルートをたどり事件現場に行ったという。彼がそこまでして追い求めた真相は、、、、  この事件、私が最初に知ったのはナショジオで放映された『旧ソ連の怪奇ファイル』(この11月に再放映された)より前に何かの番組で見たような気が、、、ヒストリーの『古代の宇宙人』でもやったかなあ、、、と思って調べたらシーズン3の#26(日本放映版)でやっているとのこと。なにせ本書解説でも指摘されているとおり、日本語版ウィキは2013年が初出ということで、比較的最近広まった手つかずの怪奇事件と言うこともあり、興味をそそられていました。 (ナショジオ該当ページ)https://natgeotv.jp/tv/lineup/prgmepisode/index/prgm_cd/1689  さて、読後だが、文体が冗長で慣れるまでしんどかったのはおいとくとして、今まで事実誤認をしていたことや、知らなかったことがかなりはっきりしました。今この事件に関する一次資料は網羅されていると思って間違いありません。でも著者がたどり着いた結論には大体納得できるものの、一番肝心のことを解明できていない。彼らが何故厳寒の夜に靴も履かずに雪原に飛び出しているのか、そこに至る推理はもう一段できるような気がします。  でも、気づいちゃった。この本に書かれている説にとある私説を加えると、さらに説得力が増すと思います。私はこれが正解でいいと考えます。以下、読んだ人向けのネタバレです。字を白色にしておきますので、範囲指定すれば反転して読めるかと思います。気になる方はどうぞ。 (以下ネタバレ&私説) 本書214ページ、彼らが戯に作った『夕刊オトルテン』の記事中にひとつだけここまでの行動に絡まないものがあります。そう、「雪男ことイエティはウラル山脈北部、オルトテン山周辺に生息していたと主張されている。」と。もちろん、本当に雪男がいたということではありません。彼らがそれまでの夜、というか昨晩、戯れに雪男の話をしてしまったと考えます。それを書き残したのでしょう。そうでないとちょっとこれだけ突拍子もないものとなってしまいます。  そして事件の夜、カルマン渦列によって引き起こされた低周波音で心理的に不安定になったとこに、前夜に話した雪男の話を、誰かがまざまざと想起してしまった。それが本当の恐怖と集団ヒステリーを起こしてしまった。テントの外から雪男に襲われる幻想に囚われてしまったのです。「リーダー風格が備わる」イーゴリ・ディアトロフの元、彼らが自分の命を守るテントを破き、防寒着も着ずに脱出したことは、このくらいのことが起こったのでないと想像できません。低周波音にやられたというだけでは、彼らの心情を説明するには不足していると思います。  ということで、雪男~本物ではなく彼らの心の中に生まれてしまった雪男(イエティ)~に追い詰められ、極寒の雪原に逃げ出し、自滅したというのが真相と考えます。唯一の生存者、ユーリ・ユーディンに、当時ソ連で雪男がどういう存在だったかを聞けていればなと思います。それとともに、超低周波音の発生は、是非現地で検証してもらいたいものです。ナショジオさんあたりに期待したいとこです。

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CM その1 ももいろクローバーZのメンバー4人(佐々木彩夏、百田夏菜子、玉井詩織、高城れに)が出演する太田漢方胃腸薬Ⅱ(太田胃散)「リモートトーク」篇で流れている音楽は、スコット・ジョプリン作曲の「エンターテイナー」(The Entertainer)。CMはこちら。 スコット・ジョプリン:エンターテイナー このブラウザでは再生できません。再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら ジョプリンが1902年に作曲したピアノ曲で、作曲者の代表曲のひとつ。人気がある曲で、現在、他のCMでも使われている。 ・はま寿司 黒毛和牛祭り ・FJネクスト ガーラマンション「ガーラに帰ろう」篇(出演:傳谷英里香) ピアノロールによる自動演奏をどうぞ。 CM その2 マクドナルドのごはんバーガー「ごはんatHOME・息子」篇(出演:塙宣之(ナイツ)、寺田心)で流れている音楽は、アントニン・ドヴォルザーク作曲の交響曲第9番 ホ短調 Op.95『新世界より』~第2楽章。CMはこちら。 ドヴォルザークが1893年に作曲した交響曲第9番『新世界より』の第2楽章の郷愁を誘うような主旋律は有名で、作曲者の死後、この旋律に歌詞が付けられていろいろな歌が誕生した。特にウィリアム・アームズ・フィッシャーが1922年に作詞、編曲した「家路」(Goin’ Home)という歌曲が有名で、『新世界より』の第2楽章には「家路」の副題が付くことがある。 MP3は制作していない。YouTubeでお聴きいただこう。 ドヴォルザークの交響曲第9番 ホ短調 Op.95『新世界より』~第2楽章 「家路」(Goin’ Home)はこちら。 CM その3 ドコモの「美波ちゃんとポインコ兄弟(d払い)」篇(出演:浜辺美波)で流れている音楽は、ヴィンセント・ユーマンス作曲の「二人でお茶を」(Tea for Two)。CMはこちら。 1925年のミュージカル「ノー・ノー・ナネット」の挿入歌(作詞はアーヴィング・シーザー)として作曲され、のちにジャズのスタンダード・ナンバーにもなった、ユーマンスのヒット作。MP3はオルゴール音色で制作した。 ヴィンセント・ユーマンス:二人でお茶を このブラウザでは再生できません。再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら YouTubeより。 CM その4 オールインワン化粧品の CANADEL(カナデル)のCM「本気の米倉篇」(出演:米倉涼子)で流れている音楽は、マルガリータ・レクオーナが作詞・作曲した「タブー」(TABU)という曲。CMはこちら。 1931年にF・W・ムルナウ監督のアメリカ映画『タブウ』が公開され、それまで学術的な用語であった「タブー」が広く一般に知られるようになった。この映画は南国の島を舞台に、青年と聖なる乙女との許されぬ愛を描いたものであった。歌手や作曲活動を行なっていたマルガリータ・レクオーナはこれの影響を受けて、1930年代初頭に楽曲タブーを作ったと考えられている(ウィキペディアより)。この曲はドリフターズの番組『8時だョ!全員集合』で、加藤茶の「ちょっとだけよ」のコントによって、当時番組を観ていた多くの日本人にとって馴染み深いBGMになってしまった(笑) MP3は制作していない。YouTubeから有名なペレス・プラード楽団による演奏をどうぞ。トランペットの音がスゴイ! 最初期の「タブー」はこちら。レクオーナ・キューバン・ボーイズの演奏。

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こんばんは リーダーです  とりあえず とっても贅沢な 写真からです 、、、 良くわからない方が殆どだとは思いますが、 自分でも思いますが  こんな贅沢な工場は見たことありません 、、、 パッケージのコンプレッサー 2代目!!  しかも 両方 アネスト岩田 !!  が 、、、  なぜか 毎回 必ず 落ちが 、、、  リーダーの所は 大体の作業がやれますので  使用目的に合わせて,それなりに道具や機械を揃えてるのですが、  違いはと言いますと  奥のやつは 本来は塗装屋さんが使うやつで、 手前のやつは 修理屋さんが使うやつ 、、、 で 2台必要なのですが 、 実は今まで 塗装屋さんが使う ちょっと贅沢なコンプレッサーで 作業してたんです、 空気を乾かしてくれる装置がついてるんです  塗装は 噴出す空気まで 気を使うんですよ 、、、  で 新しい方は それはそれで 結構優秀で  最高圧力が 15キロまで上がるんです 、 トソウノホウハ 8.5 キロマデ 高圧でガンガン 仕事できますからね 、  今じゃー なんでも エアーです ソウジキナンテ カケマセン !! 先日 先輩が工場に来たとき 、   爆発しちゃうんじゃないの !! なんて 笑いながら言ってたんだけど  高圧にすると 結構 今まで使っていたホースが破裂しちゃったり  あちこちから エアー漏れしたりで結構大変になる時が多いそうです。 意外と そーでもなかったんです ヒゴロノ オコナイガ イーカラダヨ 、、、 アンタトハ チガウンダヨ なーんて 思っておもっておりましたが 、、、

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西原理恵子原作の漫画「毎日かあさん」が映画化され、ほぼ同世代の3人が、共演した。かって夫婦だった二人と共通の友人である俳優が、フジTV「ボクらの時代」に出演し、遠慮のない話しを繰り広げ、時代の移り変わり、私生活を語る。 女優・小泉今日子(45)、俳優・永瀬正敏(44)俳優・古田新太 (45)と、ほぼほぼ同世代の3人。映画「毎日かあさん」で、小泉と永瀬は夫婦役、古田は、友人役として出演している。3人とも肉体的、精神的に年令が来ている感じをもっている。 例えば、永瀬は、階段を下りる時、妙に階段を意識し出したり、古田は、老眼鏡をかけるようになったり。古田は、一昨年、疲れた時に目がかすみだし、奥さんの眼がねをかけると見えた。小泉も、老眼鏡を買った。疲れた時、字が読めなくなってきたから。 小泉は、年令を感じることが楽しいという。若い頃アイドルだった残像がファンの人たちに残っていて、それを裏切ってやるみたいな感じが楽しいという。傷つけてやるって、感じかなあと、笑う。若く見られたいとは思わない。 3人それぞれ10代でキャリアスタートしている。 小泉は、アイドルでデビューし、その現状に不満でなかったが、満足はしておらず、好きにしたい気持ちがあり、早く大人の女優になりたいと思っていた。 永瀬のデビューのきっかけは、友人が映画の募集があると伝えてくれ、それに軽いのりで乗った。宮崎出身の永瀬、高校時代ちょっぴり進学校だったのに反発を感じ、鬱積していたので憂さ晴らし的に映画に出た。監督になんで偉そうに言われなきゃと思いながらも、終わりごろには、現場がいとおしくなっていた。その映画をつくっていた社長に誘われ、この社会に入った。 古田は、元々10代の頃から舞台俳優になりたかった。学校からたまたま見に行ったミュージカルに興味をもった。それまで、普通にプロレスラーになりたいとかロッカーになりたいとかいっていた。中学は、演劇部がなく体を鍛えていただけで、高校にはいり演劇部があり、はいった。 小泉は、若い頃から早く大人になりたかったという。それは、今でも変わらない。おおよそ、ピーターパンシンドロームのように、若さにしがみつくようなところはない。それは、古田も同じ。 古田は、早く大人になりたいと思い、選挙の話しとは、年金とはなんて話していた。アングラ劇場の俳優なんかは、逆にかっこつけて、年金?って関係ないようにいっていたと、話す。小泉もそれに同調する。 永瀬が、小泉は早熟だったという。一時期一緒にくらしたとき、まだ時代がエコを意識していない頃から、エコ意識が強かったと暴露。燃えるゴミ、燃えないゴミとはやっていたという。自然と社会意識が芽生えていたようだ。ゴミに関して小泉は、現在では、その時々、住む場所によっても区分が違うので、やるっきゃないと、合わせている。 今、多くの人がやっているブログ、ツイッターだが、この3人はやっていない。永瀬は、プロぐに載せられるのはいいが、自分でしようとは思わない。小泉も載せられ派。やる派ではない。 小泉は、携帯の返事がこない女というのがいきわたっていると自分でいう。面倒くさがりのようだ。そんな女キャンペーンをはっていると、笑う。携帯は、持ちたくないが、便利な時もあるのでもっている。 古田は、携帯をもたない主義。だから、遅刻はしないと、心に誓っている。只、飲みにいき時に、どこそこでと後輩に言われた時に、トランシーバー的に「今どこ?」ってのは、いいかもと思っている。小泉は、自分が飲んでいる時、古田に連絡したい時があり、そんなときは持ってくれてればと思う。 最近、後輩が酒を誘っても飲まなくなったと嘆く古田。特に、舞台俳優の後輩で30代の連中。逆に、TVなんかで共演する20代の俳優は、飲むと芝居を熱く語り、彼らからまた逢って話したいといわれる。 自分たちの世代は、お得世代と話す古田。子供のころ、テレビが白黒からカラーになり、大学でファミコンを経験したりと、時代の節目を感じてこれたから。永瀬も同じ思い。留守電、テレカを懐かしむ。だから、古田は、あえて携帯を持たない。前日FAX連絡で済ませる。 今のツィッターをみて、小泉は自分はやらないが子供がやるようで、ご飯を食べている時も携帯でやっているのは、気に入らないと思っている。飲んでいる時は、なおさら嫌だと、飲むのが好きな古田である。 映画「毎日かあさん」の話しに入る。 永瀬は、映画でアルコール依存症の夫の役を演じている。しかし、永瀬は場の雰囲気は好きだが、酒を飲まないので酔っ払いが分からない。役を演じる時、その程の良さに気をつけないと、コントになってしまうと、苦労談を話す。だから、よく飲む友達を誘い、観察をした。 小泉は、自分が飲むから飲む人をかんさつできないという。これはわかる。私も飲むので、言いたいことが理解できる。古田も、酔っぱらって帰ってくる芝居で、ダメ出しを食らった。電柱に頭を下げる仕草に、「ドリフ」じゃないと、叱責された経験をもつ。 酔っ払い小泉の話。酔っぱらった小泉、玄関でブーツを脱ごうとしたがうまくいかず、そのままそこで寝ていた。そんな状況を、永瀬も目撃したと、暴露する。ある時、予約が取れないレストランにいき、ほろ酔い加減の小泉が、階段から落ちたことがあった。ちょっと、飲むとドジをやる。古田も酔っ払い小泉をよく目撃している。渋谷であうと大抵酔っぱらっているという。 ここで、飲んだ時の勘定の話しになる。割り勘をいいだしにくくなったキャリアの古田、小泉。誰か、中間役の人がしきり、「誰それはいくら」とかいってくれると助かると話す。その気持ち、よく理解できる。払うのが嫌と言っているわけではなく、いつも当たり前風に払うのに少し抵抗があるという小泉。 来週は、後半部分の放送で、話しがいよいよ佳境にはいる。永瀬と小泉の夫婦時代の喧嘩の話、親子、子供、死生観など幅広く展開される。 3人共等身大の自分で話しができ、リラックスしている様子が伝わり、見ていた楽しかった。来週に期待しましょう。

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