「金剛山も食後に見学」という諺が韓国にはあります。これは日本の「花より団子」と似たような意味です。「美しい景色」「見たい景色」の代表が金剛山なのです。 金剛山(クムガンサン)は北朝鮮の江原道の東海(日本海)から内陸に位置していますが、その峰は韓国の雪岳山(ソラクサン)に連なり38度線を境に分断されています。金大中大統領のころに一時北朝線が韓国の観光客を受け入れた場所はこの金剛山でした。 韓国の人々はこぞってこの山を訪れ、「死ぬ前に一度は見たいとおもっていた。夢が叶った。」という人も多かったようです。 ■民画「金剛山図」10曲屏風部分図 ■民画「金剛山図」10曲屏風部分拡大(擬人化された奇岩) ●信仰の対象としての霊山金剛山は「仏教」、「」道教、そして土俗的な「巫神」の三教と関わる霊山と考えられてきました。山峰や奇岩などにはそうした信仰にまつわる名前が付けられている場所が多く、民画の中にも場所の名前を示す文字が書き込まれたりしています。 まずは「仏教」ですが、釈迦峰、観音峰、三仏岩などの名称がつけられた場所は仏教にちなんだものです。また金剛山には長安寺や正陽寺などの寺が建立され、民画には寺とともに仏像を安置した洞窟などがよく描かれました。 次に金剛山は昔蓬莱山とも呼ばれる「道教」の大本山でもあり、仙人の住む霊山としてあがめられました。道教からくる名称としては、神仙峰、天女峰、仙人窟などがあります。 さらに巫俗的な信仰「巫神」ですが、民間の山岳崇拝の高まりがシャーマニズムと結びつくことで、山峰や奇岩を擬人化して見たりしました。巫俗的な名称としては、日出峰、月出峰、鬼面峰、童子岩、亀岩などがあります。 民画の金剛山図は、1万2千峰全体を臨んでそのパノラマを屏風に仕立てたものや、有名な場所をクローズアップしたり、奇岩を強調して描いたり、あるいは金剛山に行き交う人々の姿をユニークな表現で描いたりと、見る者の目を楽しませてくれます。 ■民画「金剛山図」 ■民画「金剛山図」部分 ●正統画と民画李朝(朝鮮時代)を代表する画家の中に、号が謙齋(キョムジェ)・名前が鄭敾(チョン・ソン)という大家がいます。彼は18世紀前半に活躍し、金剛山をはじめとする実景山水画を得意としました。鄭敾は両班(ヤンバン)と呼ばれた貴族の出身で、文人画家ですが、図画署の画員つまり宮廷画家の経歴をもっています。韓国の絵画史を紐解くときに最高位に置かれる画家の一人です。 ちなみに2013年12月の韓国のオークション市場での例ですが、8号ほどの小品の水墨画に日本円にして2千万円を超える落札値が付きました。 ■鄭敾「金剛全図」1712年 ■鄭敾「金剛内山図」部分 ■民画「金剛山図」 朝鮮の山水画は、日本同様中国からの影響を受けてはいることに間違いのないことですが、朝鮮のものは大きなデフォルメが施されたり簡略化されたものが多くみられ、そこには細部にこだわらない大らかで楽天的な民族性があらわれています。 鄭敾の金剛山図は、民画にも似たような描き方が数多く見受けられます。もちろん民画は鄭敾のような専門的な画家の筆力には及びません。しかし、民画には、より大胆に対象をとらえて心の赴くままに描くことでもたらされる造形の面白さがあり、それが大きな魅力となっています。 ここで宮中を中心とした伝統的な正統画の専門画家たちも民画の制作にかかわってきたことを思い起こせば朝鮮民画(7)「花鳥図ー宮廷画家も描いた上手編」、民画と正統画は互いに影響を及ぼしあってきたのではないかと推測されます。 宮中から貴族そして庶民にいたるまで実用画として家々を飾った朝鮮民画ですが、彼らの民画がそのボリュームや質において世界に類を見ないスケールを誇るのは、こうした専門家たちが何らかの形で民画制作に参与していたことによるものです。朝鮮民画(1)「民画とは」 ■民画「海金剛」屏風 ■民画「海金剛」部分図 ●民画の根底にながれるもの儒教に支配された李朝(朝鮮時代)の正統画は、王侯貴族や儒学者たちによる「文人画」がそうであるように、作品に精神性を求め、制作と鑑賞を通して「人格を高めよう」という動機がありました。一方、家屋内の装飾という実用を目的として作られた民画は、家に絵を飾ることによる素朴なよろこびと、描く方も飾る方も「難を逃れ幸せを希求する」という辟邪招福が主な動機となっています。 李朝の正統画と民画、この二つには、一見内的な接点があまりないように思いますが、共通するものをたずねて見てみたとき、「自然と人間に対するあたたかなまなざし」が感じられます。 民芸運動の創始者である日本人の柳宗悦は朝鮮の工芸品を見て「愛のおとずれを待ちわびている」と感じ取りました。 当時日本の植民地支配を受けていたこの民族に対して柳が抱いていた観念は「悲哀」でした。そこからたとえば白磁を「悲哀の白」と見たのです。そうしたセンチメンタルな視点で彼らの工芸品に接した柳は、自身の内面に慈愛や憐憫の情が喚起されたのでありましょう。 「愛を待ちわびている」という言葉は、柳が朝鮮の工芸の美に共鳴したときに自身の内面に浮かんできた実感です。しかし、それは柳宗悦自身の心の内に潜んでいた悲哀が朝鮮の工芸の美によって呼び覚まされ、同時に喚起された自らの慈愛の情によって自浄するかのように慰められた実感ではないかと思うのです。拡大すれば、柳宗悦の慧眼は、自分自身の内面を通して、工芸美の中に人類が味わってきた悲哀とその慰めを見たのです。 「楽天的」であることと「悲観的」なことは、「緩み」と「緊張」がそうであるように両極にあって一本の線で貫かれ繋がっています。この民族の「楽天性」と「悲哀」、この二つは互いに別のものではなく相通ずる情的なエネルギーです。この民族に本来供えられた「楽天性」は、「悲哀」を味わうことでよりポジティブに磨かれたものかもしれません。 そして、日本人が朝鮮の工芸に触れて心を揺さぶられるのは、張りつめた糸を緩めるがごとくに、厳格な秩序による縛りが解かれるような感覚を覚えるからです。つまりゆるされるのです。井戸茶碗「戦国武将が憧れたうつわ」根津美術館 特に朝鮮民画(8)「花鳥図ー下手編(わくわくするパボ民画)」で紹介した民画はこうした緩みやゆるしを孕んでいます。 技術的には稚拙に見える放浪絵師たちによる民画は、しかし「幸せを祈る」という素朴な「情」に依拠して描かれており、これは民画全体の根底に流れる要素でいわば魂です。民画が見る人の心を慰め、さらには興を湧き立たせてよろこびをもたらしてくれるそのさらに内奥でこの「情」が息づいているのです。 李朝の最高の芸術家たちである宮中の画員たちもまた、こうした民画の内的な力を感じ取って影響をうけていたに違いありません。そう考えると、民画は、幸せを願う素朴な祈りによってこの国の芸術の根幹を支えて来たと言えるのではないでしょうか。 朝鮮民画(1)「民画とは」朝鮮民画(2)「文字図Ⅰ(孝悌)」朝鮮民画(3)「文字図Ⅱ(忠信禮義廉恥)」朝鮮民画(4)「虎図」朝鮮民画(5)「文房図(チェッコリ図)」朝鮮民画(6)「花鳥図ー牡丹図」朝鮮民画(7)「花鳥図ー宮廷画家も描いた上手編」朝鮮民画(8)「花鳥図ー下手編(わくわくするパボ民画)」朝鮮民画(10)「花鳥図ー蓮華図」 よろしければポチっと⇒オマケにもひとつ⇒にほんブログ村ついでにクリック⇒ブログ王 「わくわくアート情報/絵画の見方・買い方」ブログトップページへ

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 昭和 37 年,私は大学に入って,学生寮に入居しました。  さて,その寮の食事は,麦の入ったご飯の他に,例えばポテトコロッケとキャベツ,それに味噌汁という具合でした。  当時,私はこれをすごいご馳走に思えました。 なぜか?  それまで私が育った家では,コロッケと味噌汁が同時に出ることなんてあり得なかったからです。  私の家では,おかずは1品と決まっていました。 で,味噌汁もおかずとして扱われていました。  だから,コロッケがおかずの時は味噌汁はない。 で,味噌汁がある時は,それだけ。  それを,ごく当たりまえと思っていましたから,寮で,コロッケと味噌汁という2品のおかずが出たのでビックリしたわけです。 事前に 「寮のメシは粗末だからな」 と言われていたのに,こんなに豪華な食事だなんて・・・と嬉しくなってしまいました。  ところで,日本の食事といえば,ご飯が主食であり,副食として食べるものを 「おかず」 と呼んでいます。 この 「おかず」 ,よくよく考えるとなんだか分からないことばです。漢字が思い浮かんでこない。 たぶん 「お」 は丁寧の 「お」 だとは思うが,「かず」 の見当がつかない。 「かず」 ということばで浮かんでくるのは 「数」 ぐらいしかないが,「数」 と副食を結びつける要素はなかなか見つからない。  さあ,そうなると語源調べである。  調べてみたら,なんと 「数」 でよかったのでした。  「おかず」 の語源には2つの説があげられています。 ① もともとは副食の食品は 「な (菜) 」 と言っていた。平安時代になって貴族の生活も豊かになり,「な」

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AKIBA PCWatchの昨日の記事である。懐かしい。深夜販売する店は年々減っている上に、OSを買うのも今ではオンラインである。まあ、私は当時もオンラインで買っていたが……理由は、私の住む地域では、PC専門店が無かったからという理由だ。だから、並ぶ姿は雑誌などで見て、スゲえなと思っていた質である。あの頃は、PC雑誌も多かった。https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/wakiba/find/1110043.html 尚、我が家にはWindows2000 ProのOEM版ディスクがまだある。その上、VM環境で現役として活動しており、起動すればいつでも使える。(仮想ネットワークアダプタはなしにしており、インターネットには繋がっていない)まあ、入っているのは全て古いゲームだけで、それ以外で必要なアプリケーション資産は全てアップグレード版を等を揃えて10に移行している。残るのは古いゲームばかりである。まあ、やることもないが、消すという選択肢も特にない。 だから、時々起動して懐かしむぐらいである。 たいていの人は、WindowsXPを保有していて、2000は捨てているケースが多いので珍しい話かもしれないが、WindowsMEや98SE辺りを使っていた人から見れば、2000のインターフェースは懐かしいことだろう。今のPC環境では、VMWare環境でさえもすらすら動くのも気持ちが良い点だ。 ちなみに、IEは歴史を感じさせる。IE6.0である。シンプルなデザインだった。 これに対してWindows Media Player 9は、今のUWP版のプレーヤーソフトやWMP12より高機能だった。 Windows10ではUWPのGrooveミュージックアプリに置き換わりつつあるが、オンラインでの販売メインとなる一方で、機能は退化した。総合メディアプレーヤーとしての機能も、映画&テレビと分離したことで……。さらに、それを使わせるために、Media Playerが持ついくつかの機能を外したことで、完全に退化してしまった。 その結果、私はPowerDVDやfoobar2000を使うようになった。 尚、DVD再生機能はWindows2000世代にはなかったが、デコーダーソフトウェアが入っているなら、C:WinNTSYSTEM32配下にdvdplay.exeという枠だけのDVDプレーヤーが搭載されており、そこからDVDビデオの再生が出来るという仕組みだった。 それから、システムルートはWINNTである。現在のWindows10ではWindowsがシステムルートになっているが、それが始まったのはWindowsXPからである。2000までのNT系ではシステムルートがWINNTで、9x系のWindowsとルートが違ったのだ。共通のバッチを組むときには、WINDIRやSYSTEMROOTなどの環境変数を使う必要があった。 そして、DirectX診断ツールにはDirect Drawと3Dの描画テスト機能が存在し、ワトソン博士(XP以降は徐々に診断ツールが利用され始め。10では廃止されている)が当時のバグチェックツールだったのも特徴である。 <少ないOS機能> まあ、現在のOSから考えると機能がとにかく少ない。それは、コントロールパネルを見るだけで分かるだろう。 廃止が取り沙汰されているWindows10のコントロールパネルは以下だが、サードアプリケーションベースが6つあるものの、数は大きく増えている。 当時は、パソコンとキーボードを使った入力が基本であり、周辺機器も専用ドライバーベースで追加していたからだ。OS側で制御するというより、あくまでOSはソフトウェアやドライバを扱う環境のみを提供していた。そこにドライバーをインストールし、後は、対応したアプリケーションソフトだけで使うものが多かった。今は、OS側で制御して、不具合でも起きれば、その情報もマイクロソフトに送信される(標準設定のままだとそうなる)仕組みである。ドライバーの更新のWindows Update経由で行われるものが多くなった。 まあ、だからシステムイメージのバックアップを失うと、ドライバなどの入手が困難になるケースもあるのだが、一方でそういうトラブルがなければ、保守がある間は安定して使えるケースが多い。 <変化のある20年と変化の少ない10年> Windows9xに比べると、若干操作性に差があるものの、2000は安定性が極めて高く段違いに使いやすい。9xではシステムリソース不足の対応に各メーカーがTipsを載せるほどで、一般保護違反によるブルースクリーンは1週間使えば1度はやってくるぐらいの頻度だった。だから、Webサイトを閲覧しながら、重要文書作成などやってはいけない作業の一つであった。そもそも、WordやExcelもエラーで強制終了することも結構あった。今のように、強制終了時に回復機能(Microsoft Office2002/XP以降で搭載)を持たない頃の話だ。 ちなみに、9年前(8年半)前だとWindows 7が登場した頃だ。実は、この10年というのはさほど大きな変化がない。Vistaや7では、音声認識やタブレットなどの機能も実装され、GNSSセンサーにも対応した。音声読み上げ機能もVista以降でSpeech Engineが組みこまれ始めた。それらの制御の多くが自動化されただけで、大半は7までに備わったのだ。ディスクの大容量化もTB時代に突入してからは、鈍化した。10年で100~倍という大容量化が、2007年に1TBに達してからは10年で12倍前後である。 メモリー容量も今の主力はSSDの登場で一時期8GB主流だった流れを、ぶった切り大手メーカー製は4GBが主力にダウンしているモデルまである。(ちなみに、OSが求めているのは8GBである) このように考えると、まあPCは既に完成されて10年以上が経過しているわけだ。だから、買替えの方が多くなっているが、その需要も年ごとに変わるのだろう。 <PCを追うデバイスの空しさ> たぶん、今後これと同様の状況が、スマホで起きるのだろう。ストレージの容量も増えなくなり、CPU性能もそろそろ頭打ちになりつつある。OSが持つ機能もほぼ網羅され、ドライバレベルでサポートする必要がなくなったからだ。 まあ、PCでいうWindows2000をスマホに置き換えると、初代iPhone辺りで、3GS~4でXPになったぐらいかもしれない。それ以前のスマホは、キーボード付きのPDAベースの携帯電話でリソースもアプリもかなり中途半端だった。Windows7辺りに相当するのが、64bit化されたAndroid 5.0~6.0やiPhone5Sぐらいだろう。 気になることがあるとすれば、Windows2000やXPのように一つの世代で、安定したソフトウェア実行環境を整えたOSが今後は出てこない可能性が高い割に恩恵が少ないことだろう。Windows2000は4つのサービスパック(今で言えばフィーチャーアップデートに相当)と、1つのロールアップ(累積的な更新)を提供したが、2010年まで2000対応のアプリケーションやドライバの殆どはそのまま使える状態で保守が行われた。 しかし、今のOSは大して進化もないのに、半年おきに大規模更新されるWindowsと、そろそろ機能性の変化がなくなるのに、1年に1度新版を出すAndroidやiOSという流れになっている。 今の方が更新の間隔を2~4年に延ばして、そのタイミングでハードの買替えやアップグレードを提案した方が、効率的なのではないかと思うのだが……。はっきりいって、フィーチャーアップデート(ビルドアップ)とOTAが機能更新の割に変化をもたらさず、そろそろアプリケーションの互換性がいつのまにか切れるケースも最近は出始めている。何というか、無料で最新になり素晴らしいという前に、OSとはそもそもソフトウェアを使うための環境だということを、もう一度OSメーカーには考えて欲しいと思うが……、無理なんだろうな……マ社なんて、月額制のクラウドやビジネスアプリばかりに目を向けているし。 サイバーリンク PowerDVD

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前回,「アルプス一万尺」の歌について書きましたが,この原曲は「ヤンキー・ドゥードゥル」(Yankee Doodle)で,アメリカ民謡そして独立戦争時の愛国歌なんだそうです。 こちらがそのアニメ動画です。 歌詞は(一部ですが)・・・ ♪Yankee Doodle went to town,a-riding on a pony;Stuck a feather in his capand called it macaroni. [ Chorus ]Yankee Doodle Keep it up,Yankee doodle dandy.Mind the music and the step.And with the girls be handy! アメリカ人ドゥードゥルが町に行った小馬に乗って。帽子に羽根を刺してイタリア風を気取ってさ。

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秋晴れの朝山梨県北杜市にあるターシャ・テューダー ミュージアム ジャパン へ。 アメリカの絵本作家、ターシャ・チューダーの絵本の翻訳や出版をしていた人たちが日本のターシャファンのために立ち上げた資料ミュージアム。 1930年代の衣装を好んで身につけ広大な庭の手入れや古き良き時代のような彼女らしい暮らしを亡くなるまで貫いたターシャ。寸暇を惜しんで手仕事にいそしんだ、ていねいなな生き方。そのスタイルはいまも多くの人に憧れをいだかせています。 ターシャの写真と自作の衣装 ターシャ自作の蜜蝋のろうそく ターシャのアドベントカレンダー ターシャの絵本 ターシャの息子の建てたターシャこだわりのコギ―ハウスの模型 写真家リチャード・W・ブラウンによるベストフォトの展示室から・・・ 雑誌社からの依頼により1988年にターシャの住む〈コーギコテージ〉を訪れ、この後自由に撮ったターシャの写真によって、世界に知られるように・・・ 雨上がりのテラス花壇で 早春の庭で アンティークドレスを楽しむ 紅葉の枝を集める コギ―犬と冬の散歩 ★ターシャ・テューダー ミュージアム ジャパンhttp://www.ttmmuseum.com/ 約100点の作品を通し、多くのファンに愛されたアメリカの絵本作家・さし絵画家ターシャ・テューダー(1915 – 2008)は、幼い頃から農業に憧れ、生涯、自給自足のシンプルライフを心がけました。4人の子どもが自立した後、56歳の時、バーモント州の山中に、森に囲まれた静かな土地を購入し、そこに喜び溢れる美しい庭をつくりあげました。ターシャは2008年に92歳でこの世を去りましたが、ターシャの生き方、「人生を楽しんで」というターシャのメッセージは、今も多くの人に勇気と感動を与えています。 2020年 ~11月16日(月)休館日/火・水・木曜日 ☆祭日・8月は無休開館時間/10:00~17:00 〒409-1501山梨県北杜市大泉町西井出8240―4579TEL・FAX 0551-45-8788 アクセス/小海線「甲斐大泉駅」から徒歩7分 中央自動車道「長坂インター」から車で20分

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先月末に購入したリトープス。それを中心にリトープスが伸びてます。 地面とツライチに植えたはずなのにこんなに飛び出して・・・・。やっぱリトープスはツライチがいい。ホイールとリトープスはツライチが一番カッコいいですよね。 いや、実際これを徒長と言って良いのかどうかは分かりません。 群仙園のリトープスは連れて帰って水を遣ると膨らむのだそうです。なぜなら園ではあまり水を遣ってないから・・・・・・と園主の島田さんはおっしゃってました。 なるほど確かに・・・って感じです。 あともうひとつ、ある人から言われたこと。2号シャトルじゃ浅いから根が伸びて押し出されてるのではないか・・・と。可能性はゼロではないですねぇ。 それにこのトレー。 群仙園でやっているように、トレー植えの方がリトープスは綺麗に見えるし場所も取らなくていいねぇ・・・と言う思いで植えたのですが、管理のしやすさ・・・と言う面ではイマイチで先月購入分はトレー植えにはしなかったのですが、これも単鉢に分けようかなぁ・・・・。 そんな色々な思いがあり、どちらも植え替えたばかりではありますが思い切って植え替えました。 今回はこの鉢と このトレーを使います。 これらを使うと鉢が隙間無く並ぶので場所にすごく無駄の無い感じで良いのです。 ところで根が株を押し出してると言う意見。 物によっては根の長さからあながち無くもないかなぁ・・・と言う感じではありましたが、他の飛び出てるもの全部と言うわけではなかったのであまり関係無いみたい。 分頭して2個になっている株もこの機会にしっかり分けようかと思ったのですが、リトープスって一般的にひとつの塊根に二つの株が付いてる状態なので簡単には分けられません。で、迷ったのですが・・・・。 二つのうち一株を根を残さず外す・・・・と言う方法にしました。根出しは苦手なのですが、たぶんこれが一般的。 人によっては両方とも外すと言う人も居るみたいです。 試しにひとつだけ根を二つに割る・・・・と言う方法もやってみました。 どっちが良いんだろうね・・・・。 そんなこんなで植え替え終了! なかなか荘厳な眺めだ!

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アマンキラでの食事は、昨日の記事に書いたようにお昼はプールサイドのバレ(ガゼボ)で軽くいただき、夜は1日目はレストランで(レストランは1つしかありません)、2日目はお部屋のパティオでいただきました。アマングループのホテルには何度か宿泊していますが、レストランの印象はメニューの品数もお味もいまひとつ。バリ島の食事そのものがあまり好みではない、ということもあるのですが。。。。 1日目は、ランチにサラダ系をいただいたので、夜はインドネシア料理を選びました。お魚やシーフードを除くとほんの数品しかなく、ほとんどをオーダーしたような形です。 ガドガド。あまり味がなかった。。。また、わたしの知識ではガドガドには厚揚げやポテトが入っていると思うのですが入っていませんでした。 チキンとビーフのサテー。これは普通に美味しいです。写真は撮っていませんが、ハーブたっぷりのサラダのような箸休めのようなものもありました。 ナスのカレー。これも味がなかったのですよね~。ナスをココナッツミルクで煮たという感じでしたが、スパイス類も調味料もあまり感じませんでした。 この日は夫のお誕生日ということで、ケーキをいただきました。 順序が逆ですが(笑)、食後バーでシャンパンとモクテルで乾杯。 2日目の夜はルームサービスにしてパティオでいただきました。 前菜は生ハムやサラミのプレートをシェアーしました。シンガポールレベル。 メインは、夫はゴートチーズのトルテリーニ。 前日ランチにいただいたチキンとアボカドのライムドレッシングのサラダはとても好みで美味しかったので、メインにオーダーしました。「昨日はあんなに美味しいと思ったのに、これは美味しくないな~、なんでだろう。ドレッシングにパンチがないからかな~、美味しくないな~、不思議~。」と言いながらしばらく食べて気づいたのですが、アボカドがない! アボガドがないとほとんどがほうれん草とチキン。チキンは山のようにありましたがぱさぱさなのでチキンだけ食べても美味しくないのです。前日のサラダでは感じたライムの香りもマンゴーの香りもあまりなかったせいもありますが、アボカドがあるのとないのとでは食感も味も全然違います。 電話をして「チキンのサラダにアボカドが入ってないんですが。」といったところ、「アボカドがほしいのですか?」という返事。いや、いや、ほしい、ほしくないではなくオーダーしたのはチキンとアボカドのサラダですから~。「そのサラダにスライスしたアボカドは入っていないのです。」というので「じゃあ、どんな風に入っているんですか?いくらみても全く見当たりませんけど?それに昨日ランチで同じサラダをオーダーした時は、たくさんアボカドのスライスが入っていましたよ。」というとシェフに確認するとのこと。結局アボカドが切れていてないということでした。 なぜ最初にアボカドがないのでなしでも良いですか、とか(代わりにマンゴーを入れれば美味しかったと思います)他のものをオーダーされますか、とかオーダーを取る時に聞かないのでしょうか。オーダーを取った人が知らなかったなら、わかった時点で知らせるのが当たり前。それをなかったからとなしで出すって、どういうこと?こういうところが、バリ島らしいというか何というか。。。いやはや、アマンでこれとは。。。と呆れるばかり。 あまりお腹も空いていなかったのでメインはキャンセルし、ココナッツアイスをデザートにオーダー。 お詫びにとデザートを持ってきたり(欲しいデザートではなかったので持ち帰っていただきました)、翌日マネージャーさんからもお詫びがあり、お詫びにとプレゼントまでいただきお詫びの気持ちは十分伝わりましたが、残念な出来事でした。 We had 2 dinners in Amankila. The first night, we went to their only restaurant and ordered some Indonesian food. Gado Gado, Satee and

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NHKの社員でアナウンサーでもある久保田アナが「スタジオALTA」に潜入。フジテレビの冠番組である「笑っていいとも!」のステージに!しかも、テレフォンショッキングの真似事まで。カワイイ♪(でも、久保田アナ、NHKの方に入社できて良かったんじゃないかしら? 民放の下世話な雰囲気に染まらないでほしい人材だし)いいとも終わりのタモさんを迎えに「スタジオALTA」の楽屋にも潜入してました。タモリさん、番組終了後だからか、いつも以上にリラックスしているように見えました。やはり地図好き、鉄道好きなだけあって、それに関する書物が楽屋にも沢山ありました。(あのまま古地図の本について語ってもらっても番組一つできそう) さて、「スタジオALTA」のお話はここまで。 今回のブラタモリは「新宿誕生編」について。新宿という名前がついたのは江戸中期。江戸の甲州街道沿いに宿場町ができたことがきっかけで、「新しい宿場」=「新宿」と呼ばれ始めたそうです。 「新宿」は今では日本一の繁華街で、「新宿」の駅は世界一の乗降客数をほこる場所ですが、昔は江戸の端っこにあった場所で都心部というより多摩地区に近いような土地だったんですね。昔の方々は江戸に入る前に「新しい宿場」である新宿で身支度を整えてから、上って行ったそうです。 新宿大通りから甲州街道をブラブラしてから新宿御苑へ。新宿御苑も元は内藤氏の敷地で、その十七代目当主の方と御苑の中を見学されていました。タモさんじゃないけど、世が世ならお殿様ですよね。その御方と屋敷の広大なお庭を散策とは…。(自分は予告で見た時にロシア人の方?と思ってしまいました。だって、背が高いし彫りの深いお顔立ちだったしー) 旧初台駅も、中々の迫力でした。廃駅って、恐いイメージだけど、列車の点検用や乗客の避難通路として線路を使ったり、再利用されているそうで、何か安心しました。(14年も使った駅をもう利用しないから放置って、バチが当たりそうだし)

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ブログ「埼玉・河川敷に半分埋まった少年遺体」の犯人は未成年者だから名前も画像も上がらないのだろうと思っていたらさにあらず。主犯はもう堂々と上がっています。さすがネット。いくら未成年とはいえやったことが酷すぎるので許しておけないという気持ちが勝ったのでしょうね。なんせ5人が石でボコボコ殴ったら泡を吹いたから水に浸けたら動かなくなったと言っています。そして地中に埋めるとこまで動画に撮っていたと言うではないか。全く鬼畜のやることです。こんな奴は少年法で守られる必要はない。 だから私も晒す。名前は「森田史優」(森田しずく)写真はこれ 出典:http://breaking-news.jp/2016/08/26/026820 もうすでにyoutubeにも上っています。埼玉16少年殺人事件 ネットで犯人の名前特定画像!森田史優 不良少年グループはカラーギャング「パズル」でこの中に「しずく」を含め5人の犯人がいるといいます。 この事件現場の地名が珍しいのでちょっと紹介します。 さいたまけんひがしまつやまししもがらこ 埼玉県東松山市下唐子 この事件ですっかり有名になったようで「下唐子」と検索すると本事件が出てきますね。 その後より詳しく判り、若干の修正が必要になりました。(8/28)犯人5名の氏名がわかり、リーダー格は高橋柊也でした。 ◆リーダー格の無職少年A(16)「しう」「高橋しゅうや」こと【高橋柊也】◆無職・少年B(17)「しずく」「森田しずく」こと【森田史優】◆中学3年生・少年C(15)「彪夢」「ひょうむ」こと【関根彪夢】◆中学3年生・少年D(14)「森田ひょう」【森田ひょう】(森田史優の弟)◆中学3年生・少年E(15)「けいてぃ~」こと【?】出典:http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-6343.html

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前記…1996(平成8)年3月7日・18時23分30秒、第1605列車(単行)の横瀬駅到着を以て80有余年にわたって西武鉄道貨物営業の歴史に終止符が打たれた。平成に入ってから続く景気低迷で、JR貨物をはじめ民鉄の貨物輸送量が減少していく中で西武鉄道もその例にもれず、輸送貨物の主体であるセメントの著しい減少に伴い貨物営業の収支は悪化の一途をたどり、鉄道事業全体に影響を及ぼすに至った。しかも、電気機関車をはじめ駅構内貨物施設等の老朽化が進み、全面的改修の必要性も生じていた。しかし、それには多額の投資を要し、現状では営団(現・東京地下鉄)有楽町線との相互乗り入れや秩父鉄道との直通運転等に係わる公共交通機関としての使命遂行もあって、貨物営業の続行が将来の輸送計画に大きなネックになるとして、また、将来に貨物輸送量の回復は望めないとして総合的に検討の結果、西武鉄道貨物輸送の営業廃止が決まった。 その時から10年以上を経た今、長い貨物営業の歴史を静かに閉じたその日を、現場乗務員の当時の手記から顧みようと思う。 ・・西武鉄道定期貨物輸送の営業終焉の前日(1996.3.6)は、三菱マテリアル(株)横瀬工場の東横瀬専用線構内でセメントの鉄道輸送最終列車としての出発セレモニーが、工場や西武鉄道の関係者列席の下で清楚に挙行された。当日は、春さなかを思わせる晴天に恵まれ、終焉というどこか寂しい雰囲気を少しは和らげていた。 このセレモニーの輸送を担当するE854号電気機関車は、横瀬車両管理所6番線で定期貨物列車として最後の点検を受け、単機でセレモニーの待つ東横瀬駅へ向かった。同駅到着後、直ちに出発線に据えられているセメント満載のタンク貨車群へ、連結・組成に入った。ハンドルを握る私の手に、普段と違う緊張感が伝わる。心なしか、誘導する操車係員の無線機を通した声にも昂ぶりが交じる。慎重に連結を終わり、13時44分、実現車10両・延長14.0両・換算55.0両の最終セメント輸送列車・第1606列車の組成が完了した。・・14時、出発セレモニーが始まった。双方の代表者によるセメント輸送に関わる経緯・謝辞等が述べられ、工場の女子社員から輸送関係者に感謝の花束が贈られた。私も、担当乗務員として車掌と共に、貨物輸送に携わっておそらく初であろう、そして最後の花束を頂いた。そして、関係者から長年の輸送をねぎらわれ、背に見送りの人たちの眼差しを感じながら、運転台へステップを上がった。 定刻14時25分、出発信号機がグリーンに変わった。管区長の白い手袋が水平に伸び、出発合図が車掌から来た。いよいよ最後の門出、緊張感が一瞬身体をよぎった。 「出発進行!」、感傷を吹き飛ばすごとく力強く喚呼した。「発車!」、ブロワーの音がその声をかき消すかのように周囲に広がると同時に気笛一声、惜別の思いを込めて長く長く吹く。やがて、もの悲しく細く尾を引くように構内に消えていった。マスコンを1ノッチに投入、第1606列車はE854号機を先頭に力強く滑り出し、輸送中継駅・新秋津に向け歩を進めた。傍らで見送る人たちの別れの拍手と眼差しを受けながら私は、長い機関士生活の思いのすべてをハンドルに込め、加速させていった。最後部の貨車が専用線の最終ポイントを出ると同時に、西武の貨物輸送が27年余りにわたって慣れ親しんできた専用線構内へ気笛を力強く鳴らし、別離を告げたのである。 追記…第1606レは、定刻16時45分所沢駅6番線に到着、後刻(19時48分)同列車は第1608レとしてJRへの中継駅・新秋津へ向かう。事実上の最終セメント輸送列車は同日の第1610レであったが、同列車のセメント輸送がタンク車1両(55㌧)であることと、東横瀬駅の出発が夕刻となるため、昼間出発の第1606レにセレモニーが振り向けられた。 セメントの最終輸送先は南橋本(JR相模線)、輸送量はタンク車11両(605㌧)で、新秋津へは先行の第1608レ(所沢から列車番号が変わった第1606レ)で運ばれたタンク車10両と、続行の第1610レが運ぶタンク車1両が併結され、南橋本へ継送された。これは、西武秩父線内におけるE851形の牽引定数(570㌧)に係わり採られていた通常の輸送パターンである。 ・・明けて1996年3月7日、西武鉄道定期貨物輸送の営業終焉の日を迎えた。天候は下り坂との予報の中、第1602列車(E854牽引)はタンク車4両(空車・譲渡用)を従え、まだ明けやらぬ5時10分に東横瀬駅を後にして中継駅・新秋津を目指した。 定期貨物列車を唯一担当していた飯能乗務所では、所員の発意によりこの日の最終運転に向け“さよならセレモニー”の準備が進められてきた。  6時03分に飯能駅に到着した第1602列車は、入換(機関車の付け替え)後、上り最終貨物列車としてのさよならセレモニーが多数の所員参加の下、賑やかなうちに行われた。所員心づくしの制作による立派な「さよならヘッドマーク」が、列車の前後部に掲げられ雰囲気を盛り上げた。おそらく、貨物列車へのヘッドマークの掲出は、西武鉄道の貨物輸送80年余りの歴史の中でも初めてであったに違いない。出発までの間、記念撮影が行われ、乗務員に惜別の花束も贈られた。 8時38分、朝のラッシュも収まりかけた本線上を新秋津へ向け、温かい拍手とともに上り貨物列車は最終ランを開始した。・・第1602列車は、無事に新秋津に到着し、貨車を解放した。折り返し第1603列車は、同駅係員から贈られた花束を運転台に載せ、20年間通い続けた新秋津駅構内に最後の別れを告げて、単機で終着駅・横瀬駅に向け出発していった。ここに、新秋津駅における西武鉄道の定期貨物の取扱はすべて終了した。そして、前後にヘッドマークを掲げた単行の第1603列車は、10時55分に下り列車に対するさよならセレモニーの待つ飯能駅に戻ってきた。 11時17分出発までの束の間を利用して、セレモニーが上り列車の時と同じ要領(実際の下り貨物列車の最終は第1605レで、同駅発着が夕刻となるための措置)で行われ、定刻、拍手に送られながら終着・横瀬駅に向け走り出た。この列車を飯能駅で引き継いだ私は、後刻、事実上の最終定期貨物列車のハンドルを握ることになる。・・第1603列車は、途中の東横瀬駅で用途のなくなった専用線用のスイッチャー(ディーゼル入換機)1両を連結(最後の輸送貨物)し、貨物を牽引する最後の列車として、また、東横瀬駅専用線を最後に出発する列車として、終着・横瀬駅へ向かった。同列車は、12時51分に横瀬駅に到着、入換を終えて、再び出庫していくことのない横瀬車両管理所構内にE854号機はその足を止めた。この時点で、定期貨物としての輸送貨物は、西武鉄道のレール上から永久にその姿を消したのである。後は、事務処理的に近い状況(本線上に残るE853号機を車両管理所へ戻す)で定期運行される単行の貨物列車を残すのみであった。そして翌日には、東横瀬の専用線は完全に閉鎖された。 追記…横瀬車両管理所係員のご厚意に預かって、構内を拝借し、たった今最後の務めを終えたばかりのE854号機と僚機E852号機を並べていただき、両機の前面にヘッドマークを飾り付け、しばしの間駅職員をはじめ車両係員や私たち乗務員を囲んで、最後になるであろう記念撮影を楽しんだ。 ・・1996(平成8)年3月7日・16時20分50秒、西武鉄道における最終定期貨物列車・第1605列車(単行)は夕闇迫る狭山ヶ丘駅2番線を、淡々としていつものように、ブロワーの音を響かせ横瀬駅へ向け最終ランの途についた。定期貨物列車最終ランの機関車は、前日、事実上の最終セメント輸送の列車として新秋津へ上った第1610列車が、折り返し第1611列車として単行で下った狭山ヶ丘駅に入庫(通常は横瀬駅入庫)し、同駅構内で一夜を明かしたE853号機であった。 第1605列車は、私にとっても、機関士生活最後の担当となる貨物列車だ。出庫点検にも、いつもより一段と入念さを加えた。少しでも機器に長く触れていたい、そんな気持ちがあったのだろう。最後の貨物列車ながら、特にこれといった見送りもなく、静かに加速して最終ポイントを渡り本線へ出た。最後であるという気持ちも手伝ってか、運転の感触を少しでもしっかりと身体に染み込ませようと、伝わる振動に身を任せた。・・終着間近、芦ヶ久保駅1番線で出発待機中には、周囲はすっかり暗さを増していた。心なしか、霧雨が降り始めたようであった。  黒く佇む山間に点々と灯る家々の淡い明かりを、右の窓越しに捉えながら芦ヶ久保駅を出発、25‰の勾配を一気に下る。長い間、眼に慣れ親しんできた三菱セメント工場、もう二度と通うことのない専用線脇を、哀惜の気持ちを込めて別れの気笛を短く吹き、ゆっくりと通過した。 横瀬駅4番線に18時23分到着、入庫に向け最後の入換を行う。そして、夜の帳が迫った人影のない横瀬車両管理所構内5番線に、寂しく最後のブレーキをかけた。ここに、西武鉄道の定期貨物列車は最後の歩みを完全に止め、緩やかにパンタグラフを折りたたんだE853号機は、構内に灯る水銀灯を背に黒いシルエットを浮かび上がらせていた。ときに、1996(平成8)年3月7日18時30分であった。 振り返った管理所構内には、構内灯に反射して光り舞っている霧雨の粒が、黒い陰影を放って佇むE853号機の屋根に吸い込まれていくのが見えた。 後記…定期貨物輸送の営業終了後、E851形電気機関車は間もなくして全機4両とも廃車された。その後、E851~3号機の3両は解体されてしまったが、幸いにもE854号機は解体を免れ、現在は横瀬車両管理所で静態保存されている。そして今は、私鉄界唯一のF級電機・最強力機として全国にその名を馳せた雄姿を、イベントの開催時などで見ることができる。 また、西武鉄道には今も4両の電気機関車(E31形・1~4)が在籍するが、貨物輸送はないものの、社内の保線用資材輸送・甲種鉄道車両輸送・譲渡車両等の試運転・車両回送等に働いている。 (終)

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